唇の中の避難経路
射水貴音が地下ライブハウスでMVを再生すると、画面の歌い手が最初の音より先に息を止めた。
閉店後、一人で映像と音響を確認する最終テストだった。MVは同じ会場で撮影され、出演した歌い手は一週間前から失踪している。警察は捜索中だが、制作会社は予定どおり公開すると決めた。責任者は「失踪さえ宣伝になる」と笑い、貴音へ一人で深夜の確認を命じた。会場には彼女のスマートフォン以外、外線につながる機器がなかった。
イントロで、画面の彼女は鼻と口を手で覆った。
「息を止めて」
貴音は歌唱演出だと思った。直後のAメロには、息継ぎなしの長いフレーズがある。彼女は卓上のフェーダーを上げ、低いベースを会場へ流した。
甘い匂いがした。
画面の歌い手は歌わず、唇だけを細かく動かす。母音の数を拾うと、天井の換気口番号になった。三、七、二。貴音が見上げると、三番と七番のファンが止まり、二番だけ逆回転している。
二度目のフレーズが字幕に出た。
「息を止めて」
貴音は袖で口を覆った。頭が重い。機材庫から伸びたホースが、客席へ無色のガスを送り込んでいる。失踪した歌い手は撮影中に同じ仕掛けを見つけ、口止めされたのだ。
サビへ入ると、ベースの振動で非常扉の電子錠が点滅した。音源には、錠を解除するための周波数が埋め込まれている。しかし最後の一音だけが欠けていた。貴音は残った息で、その高さを歌う。声は震えたが、認証ランプが緑になる。
扉が開き、外気が流れ込んだ。
最後の一音の余韻とともに、MVの背景が控室へ切り替わる。歌い手がホースを撮影し、制作責任者の名が書かれた箱を映している。彼女はカメラへ近づき、歌唱指示ではなく生存のための警告を残した。
「息を止めて」
長いフレーズを美しく歌うための助言ではなかった。あの部屋で一度でも曲を再生する者が、同じガスを吸わずに逃げるための避難命令だった。
貴音は外へ転がり出て通報した。背後でMVが終わると、止まっていた換気扇が一斉に回り始めた。