囁かれなかった竜の名
「囁き一語を消すだけ? 戦場の怒号には何の役にも立たぬ」
音魔法院の選定で、ダクシオは無能とされた。
【魔法:《囁き消し》――視界内で囁かれた一語を、一日に一度だけ誰の耳にも届かなくする】
声そのものは止められず、大声には効かない。ダクシオは竜舎の夜番へ追いやられた。
白竜は眠る前、ダクシオにしか聞こえないほど小さく鼻を鳴らした。彼は餌を置き、鎖の擦れる音を確かめ、竜が大声より囁きに怯える夜があることを知っていた。だから耳元をよく見ていた。
王都の祝典で、白竜が突然暴れた。
背に乗っていた客将が竜の耳元へ口を寄せるたび、白竜は苦しみながら王宮を攻撃した。竜巫女サジエラが鎮めの歌を響かせても、竜は従わない。兵が客将を射ようとすると、彼は白竜の翼を盾にする。
ダクシオは夜番の間、白竜の寝言を聞いていた。
客将が囁いているのは命令ではない。竜が幼いころ奪われた「真の名」だ。真名を耳元で呼ばれるたび、魂の首輪が締まり、逆らえなくなる。太鼓や怒号でかき消そうとしても、真名は他の音を通り抜けて竜だけへ届く。
「次に彼が口を寄せたら、歌を止めないでください」
サジエラが頷く。
白竜が王宮の尖塔へ爪を伸ばす。客将は鞍へ伏せ、誰にも聞こえない小ささで真名を囁いた。
ダクシオはその唇を見た。
《囁き消し》。
声は出た。だが一語だけが、世界のどの耳にも届かなかった。
魂の首輪が閉じない。
白竜の瞳から赤い光が消えた。次の瞬間、竜は背中を反転させ、客将を空へ放り出す。サジエラの歌が今度こそ届き、白竜は塔へ触れる寸前で翼を広げた。
落ちた客将は広場の結界へ捕らえられ、懐から真名を刻んだ支配札が見つかった。
選定官が「たった一語だ」と呟く。
サジエラは支配札を踏み割り、白竜の首から鈴を一つ外した。
「竜を縛る鎖は、鉄とは限らない」
竜巫女は鈴をダクシオへ渡す。
「我らの歌百節より、届かなかった一語が竜を救った。今日から竜舎の夜番ではなく、竜の声守になれ」