壁越しのカーテンコール
千種絵麻は、日曜の深夜に遠征から帰るたび、キャリーケースを抱えて階段を上った。
車輪の音で隣人に迷惑をかけたくない、という理由もある。けれど本当は、側面に貼った舞台のツアーステッカーを見られたくなかった。会社では休日を「家事で終わる」と話しているし、同じアパートの住人にも、毎月別の街へ推しを追う人だとは知られたくない。
終演後の感想を話す相手もいないので、帰宅するとスマホへ小声で録音した。壁が薄いことを気にして、拍手したい気持ちまで囁き声にする。楽しかったはずの夜ほど、部屋へ戻ると急に静かになった。
大阪公演から戻った夜、部屋の前に一枚の紙が落ちていた。キャリーケースを抱えた腕が痛み、絵麻は、とうとう音への苦情が来たのだと思った。楽しかった公演の記憶まで叱られるようで、紙を拾う手が重かった。
《夜遅くにすみません。次回から少し静かにしてください》
そう書かれていると思い、絵麻は息を止めた。
実際の文面は違った。
《そのステッカー、星影劇団ですよね。来月の広島公演、日曜夜の帰り方で迷っています》
隣の部屋番号と、連絡先が添えてあった。
絵麻はドアの前で何度も読み返した。壁一枚向こうに、同じ舞台を好きな人が住んでいたらしい。けれど返事をすれば、自分の遠征回数も、終演後に小声で感想を録音していることも知られてしまう。
翌朝、隣のドアノブへメモを掛けた。
《最終の新幹線は間に合いません。私は夜行バスを予約しました》
署名には名字だけを書くつもりだった。最後に、ファン仲間の間で使う「えま幕」という呼び名も添えた。
その夜、壁の向こうから控えめに二回ノックがした。こちらも二回返す。会話はそれだけだった。
広島公演の日、朝六時に玄関を出ると、隣人もキャリーケースを持って立っていた。彼女の側面には、同じツアーの別都市ステッカーが並んでいる。
「えま幕さん?」
絵麻は一瞬だけ周囲を見た。それからキャリーケースを床へ下ろし、車輪を転がした。
「はい。千種絵麻です」
二人分の車輪の音が、朝の階段を隠さず下りていった。