字幕のない商談

 柏木篤志は、通訳の沓掛礼司を「翻訳機」と呼んだ。

 ドイツの医療機器メーカーとの商談で、相手は開発責任者のアーデルハイト・ブラウン博士。柏木は笑顔で英語を話し、博士が資料を読むあいだだけ日本語へ戻る。

「この翻訳機、余計なことは訳すなよ」

 礼司は表情を変えず、契約条項を一文ずつ通訳した。数字、材質名、保証期間。曖昧な語は両者へ確認し、議事録には発言者と時刻を残す。それがこの商談で依頼された仕事だった。

 博士が耐熱素材の品質保証を尋ねる。

 柏木は英語で「すべて同一規格です」と答えたあと、日本語で小さく笑った。

「契約したら国内向けの安い材質に替える。外人には見分けつかない」

 礼司はその発言を訳さなかった。商談外の侮辱まで相手へ届けるのは通訳の仕事ではない。ただ、議事録には時刻と原文を残した。

「今のは何と?」

 博士が英語で尋ねる。

「社内運用についての発言で、契約内容と矛盾する可能性があります」

 柏木の眉が動いた。

「勝手な注釈を入れるな。客が頼んだとおり訳せばいいんだ」

「正確性に関わるため確認が必要です」

「君の会社なんて、うちが切れば終わりだぞ」

 柏木は博士へ愛想笑いを向け、英語で「日本の若者は神経質で」と取り繕った。博士は笑わず、品質保証書のページへ付箋を貼った。

 博士は資料を閉じた。礼司が訳さなかった言葉も、品質保証の数字も、すでに彼女のノートへ日本語で書き留められていた。

 実は彼女は、学生時代から十年間、神戸の研究所にいた。会議では双方の精度を見るため、あえて日本語を使わなかっただけだ。

 柏木は、博士の沈黙を了承だと思った。気づかず、礼司へ日本語で続ける。

「こっちは客だ。次から年配の通訳を寄越せ。あと、この女には品質の話を蒸し返させるな」

 博士が、流暢な日本語で口を開いた。

「材質を替えるお話も、私には見分けがつかないというお話も、すべて理解しました」

 柏木の手からペンが落ちた。

 博士は未署名の契約書を二つに裂いた。

「御社との商談は、これで終了します」