届く手紙は一通だけ
どこへでも手紙を届ける郵便店は、宛先を訊かない。
海の底でも、閉ざされた塔でも、名前さえ書けば一通だけ届く。ただし代金は、その相手から最初にもらった手紙の記憶だ。
ベリルは、封鎖された霧の町にいるアーシャへ書いた。
町を包む霧が濃くなってから、通常の伝書鳥は一羽も戻らない。最後に届いた公文書には、門番を一人残して全員退避するとあった。その門番の署名が、アーシャだった。
――帰ってこなくていい。門を守る役目も、私との約束も捨てて、生きられる道へ逃げて。
アーシャは責任感が強い。何も言わなければ、町の最後の一人になるまで残るだろう。二人はいつか同じ店を開く約束をしていたが、その約束さえ彼女を門へ縛る鎖になっている気がした。だから手紙には、待っているとも、必ず帰れとも書かなかった。
店主が封筒へ青い切手を貼った。
「代金を」
ベリルが最初にもらった手紙は、十年前のものだった。
家族と喧嘩して橋の下で夜を明かしていた彼女へ、ほとんど話したことのないアーシャが短い紙を寄越した。
――うちの屋根裏、半分空いてる。朝になったら来て。
その一通で、ベリルは町へ残った。仕事を見つけ、友達を得て、今の自分になった。紙は擦り切れるまで財布に入れてある。
「手紙そのものは残りますか」
「紙は残る。読んだとき何を感じ、どこへ向かったかが消える」
救いたい相手との始まりを失って、その相手へ別れを送る。
ベリルは古い手紙を取り出した。アーシャの癖のある字。端に残る、屋根裏の乾いた香草の匂い。
「届けてください」
切手が青く燃えた。
橋の下の寒さが消え、朝の階段が消え、扉を開けたアーシャの眠そうな顔が消えた。新しい封筒は薄い光になって、霧の方角へ飛んだ。
掌には古い手紙が残っている。
――うちの屋根裏、半分空いてる。朝になったら来て。
誰が、なぜ自分を招いたのか分からない。
それでもベリルは、その紙を財布へ戻した。
空いた半分を、誰かのために残しておくように。