巣の高さ
妻の命日、男は川辺のベンチへパンを持っていった。
妻はここで烏へ餌をやり、男はいつも、
「懐くわけでもないのに」
と笑った。
一羽の烏が近づいた。
男が最後の一片を掌へ載せると、烏は直接くわえた。
朝、人の手から餌を取った烏と、その人は、日が沈むまで体が入れ替わる。
男は黒い翼で空へ上がった。
風に押され、屋根が近く、川が細い。
烏の目は光る物を見つけ、匂いより位置を覚えている。
妻と歩いた道も、上から見ると別の町だった。
烏の体は、古い団地の屋上へ向かった。
排水管の陰に巣がある。
青い糸、針金、木の枝。
その中に、妻の赤い毛糸が編み込まれていた。
生前、妻がベランダへ干した毛糸を、烏が少しずつ運んだらしい。
男の体に入った烏は、ベンチから家へ歩いた。
人の足を扱えず何度も転び、通行人へ助けられた。
家へ着くと、鏡の前で口を開け、自分の黒い姿がないことに何度も首を傾げた。
それから妻の写真ではなく、閉じたカーテンを指した。
「暗い。巣、暗い」
人の口で烏は言った。
妻が亡くなってから、男は窓をほとんど開けなかった。
烏には、写真の意味も命日も分からない。
ただ、以前は赤い毛糸が揺れた場所から、光と人の動きが消えたことを知っていた。
男は烏の翼で、団地から自宅の窓へ飛んだ。
硝子の向こうに、自分の体がいる。
烏はカーテンを開けようとして、棒へぶつかった。
ようやく隙間ができ、部屋へ夕日が入った。
日が沈み、二人は元へ戻った。
男の掌には、巣から抜けた赤い毛糸が一本あった。
持ち帰ろうとして、屋上へ戻した。
翌朝、男は窓を開けた。
赤い毛糸の残りで短い紐を作り、ベランダの端へ結んだ。
烏へ妻を思い出してほしいわけではない。
風が来たことを、自分が見落とさないためだった。
烏は時々ベンチへ来る。
男は餌を掌から渡さず、少し離れた地面へ置く。
もう入れ替わる必要はない。
妻が愛した景色は、地上の目線だけではなかった。
巣の高さから見れば、閉じた家にも、もう一度光を入れられる窓があった。