工事幕の向こうの灰色
鷺沢碧は、古いマンションの外壁改修を担当する現場監督だ。
住人へ騒音の説明をし、足場を点検し、作業員と管理組合の間を走る。住人たちは工事を必要だと理解していても、窓を覆う幕やドリルの音には疲れていた。
碧も毎日、頭を下げてばかりいた。
五階の住人が飼う灰猫・灰音が消えたのは、削岩機を使った日の午後だった。
驚いて網戸を開け、工事用の足場へ出た可能性がある。作業はすぐ止まり、職人たちは上下の通路を一段ずつ確認した。
住人も階段や共用部を捜したが、灰色の幕と影の中で猫は見つからない。
碧は現場事務所の図面を広げた。
足場から入れそうな場所、資材を置いていない場所、猫が隠れられる隙間。普段は苦情を言いに来る住人が、図面の前で「この部屋は昼間留守」「ここには植木棚がある」と教えてくれた。
職人と住人が、初めて同じ側から建物を見ていた。
夕方、塗装担当の若者が言った。
「猫って、暖かいところへ行きますよね」
日が落ちても温かいのは、南側の壁と、使用前の断熱材を保管したモデルルームだった。
鍵を開けると、新しい木材と布の匂いがする。
碧たちは大声で呼ばず、床近くを照らした。
積んだ養生シートの間から、灰色の尾が一本出ていた。
灰音は柔らかな布へ潜り、工事音が止まるのを待っていたらしい。飼い主が膝をつき、手の甲を差し出すと、猫はゆっくり鼻を寄せた。
抱かれた瞬間、住人も職人も同じように肩を下ろした。
現場事務所で、碧は皆へインスタント珈琲を淹れた。
五階の住人は焼いた胡桃の菓子を持ってきた。作業台を囲み、明日の騒音時間、猫がいる部屋の窓確認、洗濯物を干せる時間を話し合う。
これまでは掲示板の紙だけで伝えていたことが、湯気の向こうでは驚くほど早く決まった。
翌日から、作業開始前に各階へ短い声かけをすることになった。
住人たちは不在の隣室の窓まで確認し、職人へ茶を差し入れる人も現れた。
灰音は工事が終わるまで、窓から離れた部屋で過ごした。
数週間後、足場が外れた。
碧が最後の挨拶に行くと、灰音は明るくなった窓辺で目を細めている。
廊下には新しい塗料の匂いがわずかに残り、五階の台所からは胡桃を焼く甘い香りがした。工事幕がなくなっても、図面の前で交わした顔と声は、建物の内側へ静かに残った。