工具箱から一本だけ

唐木田眞弓は、父の工具箱を兄と開けた。

赤い鉄の箱には、レンチ、ペンチ、錆びた釘が隙間なく詰まっている。父は「女の手には危ない」と言って、眞弓が触るたび蓋を閉じた。それなのに亡くなると、兄は「近くに住んでいるお前が保管して」と箱を渡した。

眞弓が一人暮らしを始めたとき、父は棚を組み立てに来た。眞弓が説明書を読む横から工具を取り上げ、「こういうのは任せろ」と全部仕上げた。帰ったあと、棚は少し傾いていたが、直し方を尋ねることも許されない気がした。

工具箱の蓋には、父の手形のような油染みがある。兄はそこへ触れないまま、持ち手だけを眞弓の側へ向けていた。

眞弓は箱を兄との中央へ戻した。どちらか一人の足元へ置かず、まず中身を見てから決める。父の死後まで、娘が黙って持ち手を握る必要はなかった。

「重くて、うちには置けない」

「親父の形見だぞ。俺の家は子どもがいるから危ないし」

眞弓は笑いそうになった。危ないから触るなと言われた箱を、危ないから娘に預ける。父と兄の理屈は、違う声で同じ場所へ着く。

二人は作業台へ中身を並べた。眞弓は細いプラスドライバーを一本選んだ。以前、父に隠れて自転車のライトを直したとき使ったものだ。

「それだけ?」

「私が欲しいのはこれだけ。残りは工業高校の実習室へ寄付できるか聞く」

兄は不満そうに、箱の蓋を指で叩いた。

「俺に決めさせるのか」

「欲しいなら持って帰って。欲しくないなら、一緒に手放そう。私だけの役目にはしない」

兄はしばらく黙り、レンチを一本取った。父と初めて棚を作ったときのものだという。

残った工具を二人で分類し、寄付の申込書には連名で署名した。

空になった工具箱には、父の名字を書いた古いテープが貼ってあった。眞弓は剥がさず、箱ごと渡すことにした。名前まで自分の家へ持ち帰る必要はない。

帰宅後、選んだドライバーで緩んでいた机の取っ手を締めた。父に許可を求める声は、もう聞こえなかった。