帰の字

薬師寺奏太は郷土資料館のアルバイトで、黒帰山の道標を拓本に取る仕事を任された。山腹の禁足地には「行」「止」「帰」の三字を刻んだ石がある。館長のメモには注意が一つだけ書かれていた。

《「帰」の字を指でなぞってはいけない》

奏太は、石の摩耗を防ぐためだと理解した。館の古文書では、三つの石は道案内ではなく戸口だとされている。《行》は人が山へ、《止》は山がそこへ、《帰》はどちらかを家へ通す。最後の一文は墨で塗り潰されていた。

作業日誌

十一時十分 「行」採取

十一時四十二分 「止」採取

十二時十三分 「帰」採取中、和紙破損

紙が裂け、濡らした刷毛が滑った。奏太の人差し指は、彫られた「帰」の上を一画だけなぞった。石の奥で玄関チャイムが鳴った。

振り返ると、禁足地の杉の間に自宅アパートの扉が立っていた。表札も宅配ボックスも同じだ。ドアスコープの内側から、誰かが奏太を覗いていた。向こう側の部屋では、朝に脱ぎ捨てた上着が椅子に掛かり、テレビのニュースが十二時十三分で停止している。画面下の速報だけが《住人、帰宅》と繰り返していた。

彼は目を閉じ、道標から離れた。背後で鍵の開く音がして、部屋で脱いだはずの靴が石段を下っていった。次に見ると扉は消えていた。拓本の「帰」だけが、墨ではなく指の皮脂で黒く浮かんでいる。

館長は拓本を焼き、日誌から場所を削除した。燃えた和紙の灰は床へ落ちず、玄関の方角へ細い列を作って進み、閉じた扉の隙間へ消えた。「なぞったのは一度か」と聞き、奏太がうなずくと、それ以上何も言わなかった。

帰宅した奏太は、玄関のスマートロック履歴を確認した。

12:13 帰宅:薬師寺奏太

12:13 帰宅:未登録

12:13 帰宅:山

その時刻、奏太はまだ山にいた。履歴を削除すると、室内側のサムターンがゆっくり回った。施錠したはずの扉が、外へではなく部屋の奥へ開いた。

向こうには廊下ではなく杉林がある。道標の「帰」が、木々の間で白く浮かんでいた。

スマートロックが穏やかな女性音声で言った。

「おかえりなさい。三名の帰宅を確認しました」

奏太のスマートフォンに新しい家族メンバーが表示された。

《山がホームに参加しました》