帰れと言った男
「帰れ、と言ったのは私です」
二見亮介巡査は、真弓田修平警部補の質問にそう答えた。
暴力を受けた女性が交番へ助けを求めた夜、二見は被害届を受けず、自宅へ帰した。翌朝、女性は重傷で搬送された。署は二見個人の判断ミスとして処分する方針を固めている。
「危険を認識していましたか」
「していました」
「それでも帰した」
「はい」
「誰かの指示は」
二見は監視窓を見た。向こうには田淵署長がいる。
「ありません」
修平は質問を止めた。二見の返事だけ、声が硬い。
「あなたの無線記録では、女性が来た直後に署長車へ発信している」
「誤操作です」
「三分四十秒つながっている」
「何も話していません」
田淵から端末に指示が届く。
――本人が認めた。取調べを切り上げろ。
二見は画面を見ていないのに、苦く笑った。
「今も同じですか」
「何が」
「上から、もう帰れと言われた」
修平は無線音声を再生した。記録上は無音で、遠くに交番の戸が開く音だけがある。しかし波形の下に別チャンネルが残っていた。二見の携帯無線が送信状態のまま、署長車内の音声を拾っている。
音量を上げる。
『相手は県議の息子だ。届けは取るな。酔っていることにして帰せ』
田淵の声だった。続いて二見が「また来たら殺されます」と反論し、田淵が低く言う。
『命令だ。帰れと言え』
二見の顔から血の気が引いた。
「その記録は消えたはずだ」
「主回線は消されている。これは自動中継局の保守ログです」
「出したら、あなたも終わる」
「あなたは、それを守るために一人で被るつもりだった?」
「家族がいる。俺だけなら停職で済むと言われた」
監視窓が強く開き、田淵が入ってきた。
「不正取得の音声だ。直ちに停止しろ」
修平は停止しなかった。再生は最後の一言へ進む。交番の中で二見が女性へ告げる、震えた声。
――申し訳ありません。今日は、帰ってください。
修平は無線ログを複製し、取調べ報告書に添付した。田淵が電源コードへ手をかける。
その前に、修平は報告書の提出先を署長決裁から監察直送へ切り替えた。