影を一歩だけ借りる

「能力なしでは、隠れる前に見つかるぞ」

幻影科の実技教官ヴァレスは、小鳥遊依奈の白い受験票をひらひらさせた。課題は監視役三十人の視線をかいくぐり、実技場中央の銀鈴へ触れること。貴族生は分身や透明化を使い、華やかに走り出した。

透明化に失敗するたび、教官は彼女へ舞台の背景役を命じた。目立たぬ者は背景に向く、という理由だった。

依奈には姿を消す魔法がない。転移前は舞台裏で照明を担当しており、人が何を見るかより、どこに影が落ちるかを知っていた。

試験半ば、銀鈴の下から黒い腕が伸びた。

封じられていた影喰らいが、幻影魔力を餌に目覚めたのだ。怪物は床中の影をつなぎ、逃げる生徒の足を次々と飲み込む。監視役の攻撃は影へ吸われ、本体へ届かない。飲まれた者は声だけを残して平面になり、その影さえ怪物の腕へ変わっていく。銀鈴は封印の鍵だったが、怪物自身が覆いかぶさり、誰も近づけなかった。

ヴァレスは高台へ逃げ、「実戦対応も採点対象だ」と叫んだ。

依奈の足元にも黒い口が開く。

《能力・影借り――他者の影を一度だけ、自分の一歩として使用する》

依奈は怪物そのものの影を選んだ。

一歩踏み出す。

彼女の姿が消え、次の瞬間、影喰らいの胸の内側に立っていた。そこは誰の視線も届かない、怪物自身が隠していた核の前だった。依奈が銀鈴へ伸ばしかけていた手は、そのまま核へ触れる。

鈴が一度鳴った。

怪物は悲鳴も上げず、内側からほどけて消えた。床に奪われていた影が持ち主の足元へ戻り、捕まった生徒たちは無傷で解放される。

依奈はもう影を借りない。怪物が消えた場所には銀鈴だけが残り、彼女の指先で静かに揺れていた。

監視役三十人が、同時に依奈を見た。誰一人、彼女が中央へ来る瞬間を見ていない。

教官ヴァレスは高台で青ざめる。王家隠密院の長、無貌卿シグリッドが観覧席から立ち、自ら仮面を外した。

「見つからずに鈴へ触れる課題でした」

彼女は素顔で依奈へ頭を下げる。

「監視する側が、あなたに見つけてもらったようですね」

三十の採点板が一斉に、満点ではなく《監視権限移譲》へ書き換わった。