影を踏まれる盗賊の夜縫い膏

閉店間際、薬屋《針月》へ黒装束の青年が転がり込んだ。

店主オデットは悲鳴を上げず、床へ残った異様な影を見た。青年の体はカウンター前にあるのに、影だけが扉の外まで引き伸ばされ、誰かに踏まれている。

「盗賊ギルドの追跡印ね」

「元、盗賊だ。ミザルという」

影の足首には赤い輪が刻まれていた。組織を抜けた者の影へ印をつけ、踏むだけで本人を動けなくする呪いだ。

「東門が閉まるまでに町を出たい。門外の郵便宿で、荷運びの仕事をもらえる約束なんだ。影を消す薬をくれ」

「影を消せば、あなたも三日で消えます」

「では、あの足をどかしてくれ」

外から影を踏む力が強まり、ミザルの膝が床へ落ちた。

オデットは銀色の軟膏を一瓶だけ取り出す。

「夜縫い膏。影を踵へ縫い留めます。印も一緒に引き剥がせる。ただし、一度走り出したら東門まで止まらないこと」

「止まったら?」

「剥がれかけた印が、また食いつく」

彼は迷わず靴を脱いだ。

オデットが両踵へ薬を塗ると、月光のような糸が生まれ、床の影を縫い上げる。外へ伸びた影が少しずつ戻り、赤い輪だけが扉の下へ残った。

最後の一針が結ばれた瞬間、外で誰かが転ぶ音がする。

ミザルは自分の足で立った。

「代金」

差し出した銀貨には盗賊ギルドの刻印があった。

オデットは受け取らない。

「盗んだ金は薬代になりません」

青年は顔を歪め、首から古い銅のボタンを外した。

「母の形見だ。これしか、自分のものがない」

「では預かります。町の外で働き、最初の給金と交換です」

ミザルはボタンを置き、扉へ向かった。

「止まらず走る。東門まで」

「その先も、できれば」

彼は笑い、夜道へ飛び出した。足元の影はもう誰にも引かれず、ぴたりと踵についていく。

半月後、郵便配達の制服を着たミザルが店へ現れた。

正規の銀貨を置き、銅のボタンを受け取る。

「荷物を運ぶ仕事にした。盗むより、受領印をもらうほうが気分がいい」

さらに一瓶分を注文し、声を落とした。

「今夜、もう一人抜ける。俺と同じ印をつけられている」

彼が裏口へ回った直後、表の鈴がかすかに鳴った。

扉の隙間から、引き伸ばされた細い影が入ってきた。