心配という匿名
共同オフィスの入館証が失効するまで、あと十七分だった。
雨宮梓月は、自分の机から最後の観葉植物を抱えた。新しい事務所へ移る日だ。
出口に、戸塚逸希が立っていた。
「手伝う」
「心配しなくていい」
「その言い方、怒ってる?」
「三年ずっと」
三年前、梓月は会社員をしながら、夜にアクセサリーを作って販売していた。寝不足でも楽しかった。いずれ独立したいと、恋人だった逸希にだけ話した。
翌月、会社へ匿名の通報が届いた。副業規定違反。梓月は昇進候補から外れ、始末書を書いた。
通報したのが逸希だと分かったのは、別れて半年後だった。倒れそうな働き方が心配だった、と共通の友人へ打ち明けていた。
「心配だった」
「だから、私の仕事を壊した?」
「止めないと、本当に倒れると思った」
「私に言えばよかった」
「言っても聞かなかった」
「聞くかどうかまで決めたんだ」
入館証の残り時間が表示板に点滅する。警備員が、荷物を急かした。
梓月は会社を辞め、結果として独立した。最初の一年は食費を削り、発送作業で指を腫らした。華やかな紹介記事には、その夜のことは一行も載らない。
売上も安定し、今日から広い事務所を借りる。周囲は、通報が背中を押したのだと笑う。
けれど成功したことと、裏切られたことは別だった。
「これを渡したかった」
逸希が封筒を差し出す。匿名通報の原本と、名前を明かす訂正文だった。
「今さら会社に出しても、何も変わらない」
「変わらなくても、匿名のままにしたくない」
梓月はまだ彼を好きだった。だから好きと言えなかった。今の成功まで、逸希の心配のおかげにされるのが嫌だった。
「心配してくれて、ありがとうとは言わない」
「言わなくていい」
「心配じゃなく、信じてほしかった」
「うん」
抱えた鉢の土が腕へこぼれた。逸希は手を伸ばしたが、梓月がうなずくまで触れなかった。その待ち方だけは、以前の彼にはなかった。
失効まで一分。
梓月は封筒を受け取り、裏に新しい事務所の住所を書いた。
「これは許した印じゃない」
「分かってる」
「分からないことを、勝手に分かった顔しないで」
そう言って住所を渡し、梓月は退館ゲートへ向かった。扉が閉まる直前、観葉植物の重い鉢だけを逸希へ預けた。