心配を食べる時計虫
時計虫は、心配事を一つ食べているあいだ、その心配に関わる時間を止める。
食べ終えた心配は戻らない。時間が動き出しても、持ち主はもうそれを案じることができない。
凍った運河の中央で、スティアは弟ノクスの名を叫んだ。
薄氷が割れ、少年の身体は黒い水へ沈みかけている。岸から投げた縄は一歩届かない。
外套の襟に隠れていた時計虫が、真鍮の翅を開いた。
「弟が溺れる心配を食べさせるなら、弟の時間を止めよう」
スティアが頷くと、世界から音が消えた。
飛び散った水滴が宙に止まり、ノクスは氷の下で目を見開いたまま動かなくなる。
時計虫が胸元へ潜り込む。
幼いころから抱えてきた心配を、端から齧り始めた。
両親を亡くして以来、スティアは弟の熱、空腹、帰宅の遅れをすべて数えてきた。自分の仕事を断ってでも学校へ迎えに行き、夜中に何度も呼吸を確かめた。
重荷だと思った夜もある。
けれど心配することが、姉である証しでもあった。
氷の上を這い、縄を少年の腕へ巻く。
時間は止まっているのに、時計虫だけが急いで食べる。ノクスが初めて一人で市場へ行った日の不安が消えた。高熱を出した冬の震えが消えた。将来、危険な渡し守になりたいと言ったときの胸騒ぎも消える。
「もっとゆっくり食べて」
「心配が強いほど、私は腹が減る」
岸まであと二歩。
スティアは縄を引くが、濡れた身体は重い。氷には新しい亀裂が走ったまま止まっている。時間が戻れば、一気に崩れる。
胸の中で、弟を案じる気持ちが小さくなっていく。
このまま食べ尽くされれば、腕を離しても何も感じなくなるのだろうか。助け終える前に、助けたい理由を失うかもしれない。
スティアは縄を自分の腰へ結び、岸の杭へ身体ごと投げた。
最後の一歩で、時計虫が満腹の声を上げる。
音が戻った。
氷が砕け、水が跳ねる。二人は岸の雪へ転がった。
「姉さん!」
ノクスが咳き込みながら抱きつく。
スティアは腕を回した。身体が覚えていたからだ。
弟が生きている。
その事実は分かるのに、安堵より先に次の危険を探す習慣が、どこにもなかった。
「もう渡し守になるなんて言わない」
ノクスが泣く。
以前なら賛成できなかった夢を聞いても、胸は静かだった。
時計虫は彼女の襟で眠る。
スティアは、自分が弟を救ったのか、弟を心配できる最後の自分を岸へ置いてきたのか分からなかった。