忘れられない名札
売れなくなった舞台俳優は、古道具屋で銀色の名札を見つけた。
胸へ着ければ、一度会った人は必ずその顔と名前を忘れない。
代わりに、一日着けるごとに、持ち主は誰か一人の顔を忘れる。
俳優は最初、稽古場だけで使った。
演出家は一度で名前を覚え、端役だった俳優へ台詞を増やした。
観客も終演後、顔を覚えていた。
名札を毎日着けるようになった。
仕事は増え、街でも声をかけられた。
「昔から応援しています」
そう言われるたび、自分が消えずに済む気がした。
忘れる顔は、遠い同級生や、昔の隣人だと思っていた。
写真を見れば何となく戻るので、気にしなかった。
ある朝、娘が朝食を持ってきた。
俳優は扉を開け、
「どちらさまですか」
と尋ねた。
娘は冗談だと思って笑った。
だが俳優は、声も顔も分からない。
部屋の写真には、幼い娘を抱く自分がいる。
それでも隣の子どもが誰なのか思い出せなかった。
「名札、外して」
娘は胸元から銀色の板を引きちぎった。
「あなたは誰だ」
「忘れた人」
娘は泣いて帰った。
俳優は名札を外し、仕事へ行った。
共演者は覚えている。
観客も名前を呼ぶ。
ただ、娘がどんな笑い方をしたか分からない。
自宅には、娘が残した物が多かった。
欠けた茶碗。
誕生日の手紙。
舞台で失敗した夜に届いた、
「台詞を忘れても、帰る家は忘れないで」
というカード。
俳優は娘の家を訪ねた。
顔を見ても、記憶は戻らない。
「思い出せない。でも、覚え直したい」
そう頼んだ。
娘はすぐには許さなかった。
月に一度だけ食事をした。
俳優はノートへ、娘の好きな物や嫌いな話題を書いた。
娘は、子どもの頃のことを教える義務はないと言った。
二人は過去を再現せず、現在の知り合いから始めた。
舞台の仕事は減った。
名札を外すと、すぐ忘れられることもあった。
それでも小さな劇場へ立ち、毎回、自分の名を最初から名乗った。
数年後、娘が客席へ来た。
終演後、俳優は大勢の顔の中から娘を見つけた。
過去の記憶ではない。
何度も食事をし、最近覚えた顔だった。
「今日は分かった?」
娘が聞く。
「今日のあなたは」
俳優は答えた。
銀色の名札は舞台小道具の箱にある。
誰からも忘れられない人生より、自分が忘れたくない一人を、毎日覚え直す方が難しかった。
だからこそ、その名前は拍手より長く残った。