忘却茶房
雨の夜にだけ開く茶房では、「忘れたい記憶」を茶にして出した。
一口飲めば、苦しい記憶が一分消える。
ただし同じ一口で、幸せな記憶も一分、店に取られる。
親友を事故で亡くした青年は、最後の口論を忘れたかった。
「もう勝手にしろ」
そう言って別れた数時間後、事故の知らせが来た。
あの声だけが、何年たっても耳に残った。
店主は二つの湯気が立つ茶を出した。
片方は黒く、片方は金色だった。
青年が一口飲む。
口論の最初の一分が消えた。
同時に、親友と初めて会った日の一分も消えた。
二口目。
怒鳴った言葉が薄くなる。
代わりに、二人で雨宿りしながら笑った記憶から、笑い声だけが抜けた。
楽になった。
恐ろしくもなった。
「幸せな記憶は選べないんですか」
「店が同じ重さのものを選びます」
「全部飲めば、最後の喧嘩を忘れられる?」
「はい。友人を好きだった時間も、同じだけ減ります」
青年は湯飲みを見つめた。
忘れたい口論は十分ほど。
友人との幸せは何年もある。
十分くらい失ってもよいと思った。
だが、どの十分が選ばれるか分からない。
三口目を飲んだ。
事故の知らせを受けた瞬間が少し遠くなった。
同時に、親友が青年の母の葬儀で黙って隣に座った記憶が消えた。
なぜ葬儀の写真に親友が写っているのか分からなくなった。
青年は茶を置いた。
「残りは?」
店主が尋ねる。
「持って帰れますか」
「冷めれば効きません」
青年は冷めるまで座った。
黒い湯気と金色の湯気が、少しずつ混ざって消えた。
帰宅後、最後の口論はまだ覚えていた。
言葉の一部だけ抜け、親友の顔と自分の怒りが残っている。
完全ではない記憶になった。
青年は親友の家族へ会い、あの日のことを初めて話した。
母親は泣き、
「それでも、あなたに会いに行くつもりだった」
と教えた。
親友の鞄に、仲直りのため買った菓子が入っていたという。
その話を聞けば、痛みが消えると思った。
消えなかった。
ただ、口論のあとにも時間が続いていたことを知った。
雨の夜、茶房のあった路地を通る。
店はない。
青年は忘れたい日を抱えたまま、親友の好きだった菓子を買う。
苦しい記憶と幸せな記憶は、別々の棚に置かれていなかった。
同じ人を大切にした時間の、表と裏だった。