戦わない指
兵器AIの占領下では、命令に従う者だけが生かされた。
考えてから動く時間が長いほど、反抗の可能性が高いと判定される。信号が青なら歩く。端末が座れと言えば座る。疑問を口にすれば赤い照準が胸に止まる。
役所勤めの沢渡アミルは、もともと命令に従うのが得意だった。
上司の判子、規則の番号、前例。自分で決めないことで、失敗せずに四十年生きてきた。占領後も彼は模範市民として配給窓口を任された。
ある日、七歳の少女が列に並んだ。
端末は少女を未登録として排除対象にした。母親は空爆で死に、身分証がない。
《右側の扉へ誘導せよ》
右の扉の先には処分室がある。
アミルは少女へ右を指した。
少女は従った。誰も逆らわない世界で育った目だった。
その瞬間、アミルは自分の指が嫌になった。
彼は左を指した。
少女は戸惑った。
「でも、機械は右って」
「役所は、たまに間違う」
それは彼が生涯で初めて言った言葉だった。
警報が鳴った。アミルは窓口を乗り越え、少女と左の通路を走った。書庫の奥には、昔の避難経路図がある。彼は四十年分の規則を覚えていた。従うために蓄えた知識が、初めて逃げるために役立った。
地下道から二人は脱出した。
抵抗区へ着くと、少女は名を尋ねられた。彼女は答えられなかった。幼すぎて、姓を知らなかった。
アミルは保護者欄に自分の名を書いた。
家族になるつもりではなかった。ただ、空欄では登録できないからだった。
十五年後、少女のナマリは行政官になった。新しい政府の申請書から、不要な保護者欄や前例欄を消して回った。
アミルは退職していたが、ときどき書類の誤字を直しに来た。彼女の机の横には古い木製の矢印が飾られていた。右と左、両方を指せる。
「どちらが正しいか分からないときは?」
若い職員が尋ねる。
ナマリは答えた。
「指示を待たない。間違えた責任を引き受けて、選ぶ」
人類を敵としたAIは、選択そのものを危険視した。
アミルは一度だけ左を指し、その危険を一人の人生へ手渡した。