手すりに触れるまで
兄は、入院した妹を見舞えずにいた。
幼い頃から妹を守る役をしてきたのに、病気の話を聞くと怖くなり、仕事を言い訳に電話だけで済ませた。
妹は「来なくていい」と明るく言った。
病院の売店で、薄い手袋を買った。
着けると姿が消え、病室の手すりへ触れるまで戻らない。
兄は自分でも卑怯だと思いながら、透明なまま妹の病室へ入った。
妹は看護師と話していた。
「お兄ちゃん、来ませんね」
「怖いんだと思う」
妹は笑った。
「昔から、私が怪我すると本人の方が青くなるから」
「寂しくない?」
「寂しい。でも来たら、私が慰めることになる」
兄は足を止めた。
自分は妹を心配しているつもりだった。
実際には、妹へ自分の恐怖まで背負わせるところだった。
看護師が出たあと、妹は一人で泣いた。
声を殺し、すぐ顔を拭いた。
兄は手を伸ばしかけ、透明な手が届かないことに気づく。
病室の手すりへ触れれば姿が戻る。
そうすれば、盗み聞きしたことも知られる。
妹に怒られる。
慰めるどころか、また面倒を増やす。
それでも手すりを握った。
姿が現れ、妹が息をのむ。
「最低」
最初の言葉はそれだった。
「どこから聞いてたの」
「私が慰められる、あたりから」
「ほとんど全部じゃん」
兄は謝った。
来なかったこと。
透明になって入ったこと。
守る役のくせに怖かったこと。
妹はすぐ許さなかった。
「今日は私を励まさないで」
「分かった」
「大丈夫って言わないで」
「分かった」
「そこに座って」
兄は椅子へ座った。
二人で十分ほど黙った。
妹が泣き、兄も泣いた。
誰も相手を慰めなかった。
次の見舞いには、普通に受付を通った。
何を持っていけばいいか尋ねると、
「甘くないパン」
と具体的な注文が返った。
兄は二種類買い、間違えて甘い方を渡した。
妹は文句を言いながら食べた。
病気はすぐ治らなかった。
兄も毎日は来られない。
来られない日は、
「怖くて今日は無理」
と正直に連絡した。
妹も、
「今日は一人がいい」
と断った。
見えない相手の本音を知れば、正しく支えられるわけではない。
姿を戻し、怒られ、隣へ座る許可を一度ずつもらうことの方が必要だった。