投票料は一時間
百武灯真が若い頃、投票は無料だった。やがて自動生成された有権者と衝動投票が問題になり、本人の寿命を一時間支払う制度へ変わった。人生を削ってまで選ぶ意思だけを、本物と認めるためだ。
結果、投票所へ来るのは残高の多い人間ばかりになった。日雇い労働者、病人、時間債務を抱えた若者は「政治より明日」と言って棄権した。八十六歳の灯真も、制度変更後は一度も投票していなかった。
最後の選挙の日、彼の残高は一時間七分だった。肺の病気で長くはない。候補者の一人は、灯真が暮らす低残高住宅を取り壊し、時間富裕層向けの医療区に変えると公約していた。もう一人は投票料の廃止を訴えていたが、支持率は拮抗していた。
娘は止めた。
「お父さんの一時間で国は変わらないよ。その一時間を一緒にいたい」
灯真もそう思った。選挙は大きすぎ、自分の命は小さすぎる。だが住宅の中庭で、若い母親が投票所の方角を見ながら、残高不足の端末を握っているのを見た。その子どもは、取り壊し予定の壁へチョークで家を描いていた。
灯真は娘と投票所へ行った。承認画面には《支払い後残高、七分》と出た。指が震えた。英雄になりたいわけではない。怖かった。ただ、無料だった頃に何となく入れた一票より、この一票の方が民主的だとも思わなかった。
投票を終えると、娘と中庭のベンチに座った。残り七分で、灯真は昔の選挙の話をした。候補者の名前を間違え、二人で笑った。最後の一分、娘は何も言わず肩を抱いた。
開票結果は一票差だった。投票料廃止を訴えた候補が勝った。
灯真は結果を知らなかった。だが翌年、無料になった投票所には、あの若い母親が子どもの手を引いて現れた。壁の家は取り壊されず、その横に小さく《灯真さんの一時間》と書き足された。
後に投票料廃止法は、非公式に《灯真条項》と呼ばれた。娘はその名を聞くたび複雑な顔をした。父の死を制度改革の美談だけにはしたくなかったからだ。次の選挙で彼女は無料の投票を済ませ、中庭で七分間、何もせず座った。父が本当は生きたかった七分を忘れないために。