指輪のない左手

 区役所の戸籍窓口が閉まるまで、あと六分だった。

 千尋は自動ドアの脇で、壮一が離婚届の受理証明書を受け取るのを待っていた。呼ばれた理由は「一人で帰りたくないから」。三年ぶりに届いたメッセージに、断る言葉を見つけられなかった。

「終わった」

 壮一が封筒を掲げる。

「お疲れさま」

「それだけ?」

「ほかに何て言えばいいの」

 彼の左手に指輪はなかった。薄い跡だけが残っている。

 結婚する前、二人は週に一度会う友達だった。妻になった人は、その関係を嫌がった。何もないと言っても信じてもらえず、最後には「千尋を選ぶなら離婚する」と迫られた。

 壮一は結婚生活を選び、千尋との連絡を断った。

 それでよかったと思った。好きだと伝えれば、妻の疑いを正しかったことにしてしまう。千尋が黙っていれば、少なくとも二人の間には本当に何もなかった。

「離婚の原因、私じゃないよね」

「違う」

「ちゃんと言って」

「千尋じゃない。生活の全部を疑われるのに疲れた」

「じゃあ、今日ここに呼ぶのはおかしい」

「どうして」

「また同じこと言われる」

 閉庁を知らせる放送が流れ、職員が番号札の機械にカバーを掛ける。外は夕立で、軒下から出られない。

「三年間、本当に何もなかった」

 壮一が言う。

「うん」

「連絡も、会うことも」

「何もない。それでいい」

「よくない。千尋がいなくなって平気なふりをしたのも、離婚した日に最初に顔が浮かんだのも、なかったことにはできない」

 千尋は雨を見た。ここで好きだと言えば、待っていたように見える。彼の結婚が終わるのを願っていたと思われる。それが怖かった。

「私は、あなたの離婚のご褒美じゃない」

「わかってる」

「寂しさを埋める係にもならない」

「それも頼まない」

「じゃあ、何をしてほしいの」

「今日、隣を歩いてほしい。明日からは、千尋が決めて」

 雨脚が少し弱くなる。最終受付の札が裏返された。

「私たち、何もない」

 千尋は三度目に言って、スマートフォンを開いた。

「何もなかった。でも、今は、なくしたくないものがある」

 壮一とのトークは、三年間アーカイブの底に残してあった。削除せず、通知をオンに戻す。

 千尋は傘を開き、彼が入れる分だけ右へ傾けた。

 駅へ着いたとき、ちょうど電車が発車した。

 二人は走らず、次の一本を同じベンチで待った。