揺れますので
「揺れますので、おつかまりください」
飛空艇《青鯨号》の客室侍女アデルマは、離陸のたび同じ台詞を繰り返した。
客の外套を預かり、酔い止め水を配り、通路の鞄を座席下へ押し込む。少年給仕キリクには厳しく、配膳車の車輪を固定し忘れると、笑顔のまま三度やり直させた。もっとも、急病人が出れば誰より早く薬箱を届けるのも彼女だった。
雲海へ入った時、後部扉が外から開いた。
鉤爪靴で船腹を登ってきた空賊が一人、通路へ滑り込む。
船長殺しで名高い《墜とし屋》だ。風切り短刀を抜き、操舵室へ一直線に駆ける。護衛は前方。客が悲鳴を上げるより早かった。
アデルマは配膳車の固定具を外した。
船体が傾く。
車がころりと半歩進んだ。
それだけで、空賊は消えた。
扉は閉じ、通路には割れた皿一枚ない。客たちは乱気流だと思い、手すりへ掴まっている。だが配膳棚の下へ潜っていたキリクには見えた。
アデルマは走る車を片手で止め、その陰へ入った。ナプキンを一度振ると、布が風切り短刀へ巻きつく。空賊の勢いをそのまま折り畳み、救命帆の袋へ押し込む。扉を開けたのも閉じたのも彼女で、敵は悲鳴を上げる前に袋の中で気を失った。
空中で敵の動きだけを奪う《無風》。
帝国艦隊の提督を高度一万尺から誰にも知られず連れ去った、伝説の暗殺者の名だった。
アデルマは救命袋へ遭難者用の発信石を付け、貨物口から投下する。袋は自動帆を開き、地上の憲兵詰所へ向かった。風切り短刀の傷がついたナプキンは細く裂いて雑巾箱へ。扉の鍵を締め、床に落ちた靴底の砂を刷毛で払う。
「アデルマさん、いまの……」
キリクが震えながら顔を出す。
「車輪を固定しなさいと言いましたね」
「無風って、あなた――」
彼女は人差し指で少年の口を閉じ、ずれた帽子を直した。
客室では誰かが酔い止め水を求めている。アデルマは何も起きなかった顔で新しい杯を盆へ載せた。
船体がもう一度、今度は本物の風で傾く。
彼女は片手で配膳車を押さえ、キリクへ最初と同じ注意を向けた。
「揺れますので、おつかまりください」