旧姓で署名する夜
外交晩餐会の署名卓には、シェリルの名が元夫の姓で印刷されていた。
離縁から三年経つのに、社交界はまだ彼女を「ローディス夫人」と呼ぶ。あの家で受けた屈辱ごと戻されるようで、名を聞くたび胃が痛んだ。
外務卿グレイヴは紙面を一瞥し、書記へ返した。
「刷り直せ。シェリル・アンスだ」
さらにインク壺を卓の左へ移す。左利きの彼女が袖を汚さない位置を、一度の会議で覚えていた。
「ペン先は柔らかいものを」
他国の大使を冷笑一つで黙らせる外務卿が、シェリルの指の疲れだけは気にする。
今夜の協定には、彼女が設計した交易路の管理権が含まれていた。ところが刷り直された文書の末尾に、新しい一文が加わっている。
「管理官シェリルはグレイヴ外務卿との婚約後、同卿の姓を名乗る」
シェリルはペンを置いた。
「署名しません」
隣国大使が眉を上げる。
「外務卿の庇護を受ける条件でしょう?」
「私は仕事のためにここにいます。婚約も改姓も条件にしていません」
大使はグレイヴへ向き直る。
「貴国では、女性の拒否一つで協定を止めるのですか」
「止める」
外務卿は自分の署名済み文書を破棄した。
「彼女の名を勝手に担保へ入れた協定は無効だ」
「しかし、あなた自身も彼女を妻に望んでいると」
「望んでいる」
隠さない答えに、シェリルが息を呑む。
「だが、私の望みを条項へ忍ばせる卑劣漢ではない」
グレイヴは婚姻文を削り、管理権がシェリル個人へ属すること、姓の変更を一切条件にしないことを書かせた。
「今夜、署名するか」と彼が尋ねる。
シェリルは全文を読み直した。
「これなら署名します」
左手で「シェリル・アンス」と記す。外務卿はその隣へ印を押した。
シェリルは外交団の険しい顔を見た。
「私が断ったせいで交渉が難しくなります」
「難しくなる」
グレイヴは否定しない。
「だから私が働く。おまえが名前を差し出して簡単にする必要はない」
彼女の拒否で増えた負担を、彼女への借りとして数えない声だった。
「今後、彼女を旧夫の姓で呼ぶな。私と結婚する日が来ても、名を選ぶのはシェリルだ。協定も愛情も、改姓の命令にはならない」