曇った方を選ぶ男
投資会社の会議室で、社長の乾がジンを飲んで死亡した。副社長の立花と二人だけの祝杯で、同じ瓶から二つのグラスへ注いだという。乾は立花に目を伏せさせて二客の位置を入れ替え、「好きな方を先に取れ」と選ばせ、残った一杯を自分で飲んだ。毒は乾のグラスだけにあり、立花は「位置は分からず、無毒を取れたのは偶然だ」と主張した。
容疑者は立花、酒を用意した秘書の佐伯、夜間警備の真田。佐伯は未開封の瓶と二つの空グラスを卓へ置いて退室し、注いだのは立花だった。乾は合併を撤回して立花を解任する予定で、佐伯は横領を疑われ、真田は警備契約を切られるところだった。毒を片方へ入れても、乾が位置を入れ替えた後で立花が安全な方を選べなければ計画は失敗する。その不確実さが立花への疑いを弱めていた。
鑑識の珠洲は卓の二つの輪を測った。
「選択が本当に自由だったかは、三つの手掛かりで分かります」
一つ目。立花の安全なグラスだけ、卓上に幅広い結露の輪を残している。乾の毒入りグラスの輪はほとんどない。
二つ目。発見時、両方の酒の温度と氷の数は同じだった。結露の差は中身ではなく、注ぐ前の器の温度差による。
三つ目。会議室の小型冷蔵庫の棚に、空のグラスを置いた円形の濡れ跡が一つだけ残っている。鍵を持ち、会議前に室内へ入ったのは立花である。
立花は「目を伏せていた以上、冷蔵庫から出した時の位置など役に立たない」と繰り返した。珠洲は安全なグラスを再び冷やし、位置を何度入れ替えても、表面だけが白く曇る様子を見せた。
「あなたは自分が飲む安全なグラスだけを先に冷やし、毒入りは室温のままにした。乾さんが位置を入れ替えた後でも、曇った方を見れば安全な一杯を識別できる。あなたはそれを選び、乾さんには残りを飲ませたのです。片方だけの結露、同じ中身の温度、冷蔵庫の一客分の跡。この三点が温度による目印を示します」珠洲が言うと、立花は曇ったグラスを見つめた。二杯の位置が入れ替わっても、表面の曇りを見れば毒のない方を追える。透明に戻るほど時間がたっても、その選択だけはもう偶然には戻らなかった。