最後の一口を温める
化学者の薬研は、自宅実験室を内側から施錠し、オンライン特許会議へ参加した。開始十分後、保温台に置いた紅茶を飲み干すと、苦しみながら倒れた。救急隊が開錠した時も扉と窓は閉じ、室内に他人はいない。毒は即効性で、会議前から紅茶全体へ混ぜてあれば最初の一口で発症するはずだった。
容疑者は助手の禰寝、相続人の八束、共同医師の蘆田。三人とも別の場所から映像参加し、薬研が特許を単独申請すれば損をする。紅茶は薬研自身が会議直前に淹れ、誰も実験室へ入っていない。
薬研は会議の前半、いつものように紅茶を少しずつ口にし、味にも匂いにも異常を訴えなかった。八束は遺言の変更を、蘆田は臨床試験の中止を恐れていた。禰寝は実験器具の管理者として、カップも保温台も市販品で危険はないと断言した。毒がいつ液体へ入ったかだけが、密室の時間を解く鍵だった。
私はカップと保温台だけを調べた。手掛かりは三つだった。
第一に、毒は残った雫の底部からだけ高濃度で検出され、上部に付いた茶渋からは出なかった。
第二に、カップの二重底には熱で溶ける薄い封があり、保温記録では開始八分後に設定温度へ達していた。
第三に、その保温台の予約設定は当日、禰寝の実験用タブレットから変更されていた。
八束は二重底を見て息を呑んだ。薬研が自分で注いだ紅茶は無毒で、封の下に隠された微量の薬剤だけが、温度上昇とともに底へ溶け出したのだ。
「禰寝は前もってカップの底へ毒を封じ、会議中に保温台が温まるよう予約した」私は告げた。薬研は上澄みを安全に飲み、最後の一口で底に集まった毒を摂った。濃度差が投入時刻を、熱で溶けた封が仕掛けを、設定端末が犯人を示す。扉は薬研自身が内側から閉じていたから、密室を破る必要はない。会議に同席した禰寝は、部屋へ手を伸ばさず、温度だけを八分遅れで送り込んだ。 凶器はカップではなく、会議中に上がった温度だった。 安全だった最初の九分が、かえって罠を完成させた。