最後の取引額
綿貫雄大主査は、一九三六円の支出命令を承認できずにいた。
県警会計課の机には、情報提供者への現金支払いを装った精算票がある。受取人は符号KD一九。金額は一九三六円。捜査費としては不自然に細かいが、上司は端数調整だと言った。
その朝、雄大は会計課の録音回線に残った通報を聞いた。声の主は情報屋の小田切俊だった。
――最後の取引をする。一九三六円払ってくれ。
受理員が意味を尋ねる。
――俺が最初に警察へ売った情報の値段だ。帳簿のKD一九を見ろ。死んだ口座へ、今夜また払う奴がいる。
小田切は咳き込み、続けた。
――明日、俺は過量摂取ってことになる。でも薬はやってない。支払った時刻が、俺を殺す。
通報はそこで切れた。翌日、小田切はホテルで死亡し、薬物事故と速報された。逮捕も捜査もまだ始まっていない。会計記録だけが、彼の言葉より先に整えられようとしていた。
雄大がKD一九の過去帳票を開くと、十年前の初回謝礼が一九三六円だった。昨夜の新規支出命令は、小田切の死亡推定時刻から二時間後に作成されている。承認者は捜査一課長。受領印には小田切の本名が使われていたが、筆跡は過去のものと違う。
会計課長が雄大の画面を閉じた。
「協力者を守るための仮名処理だ。細部を掘るな」
「死亡後に本人が受領するんですか」
「時刻入力の誤りだ。承認しなければ、捜査費全体が監査対象になる。現場は二十年、こうして情報屋を回してきた」
「小田切は、それを知って通報した」
「金で嘘を売った男だ。最後まで会計を脅しただけだろう」
雄大は精算票の承認欄を見た。押せば数字は帳尻に埋まり、小田切の声は恨み言になる。止めれば、過去の架空謝礼と、自分が見過ごした帳票まで掘り返される。
彼は承認の代わりに支出凍結を選択した。通報音声、初回帳票、死亡後の作成ログを監査資料へ添付し、理由欄へ『受取人死亡後の支出および証言封殺の疑い』と入力する。
一九三六円の精算票へ赤い保留印を押し、雄大はその紙を会計課長の机の中央に置いた。