最後の問題だけ解かない
国見亜澄が教室へ戻ると、石動知隼が数学のプリントを前に固まっていた。
学年一位と二位が、放課後まで残って勉強するのは珍しくない。いつもなら競うようにページをめくり、どちらが先に帰るかまで勝負になる。けれど、知隼が止まっているのは最後の応用問題ではなく、一問目の一次方程式だった。
「そこ、移項するだけ」
「分かってる」
「十分見つめたら答えが浮く方式?」
「今日は浮かない」
夕日が机の上を半分だけ照らす。知隼の席には、前の持ち主が書いたらしい言葉が薄く残っていた。
――正解は一つじゃない。
数学の机に似合わない落書きだと、亜澄はいつも思っていた。
「進路票、出した?」
知隼が突然聞いた。
「出した。理学部」
「迷わなかった?」
「迷ったよ」
「でも決めた」
「紙にはね」
知隼は鉛筆を置いた。家族は医学部を望み、先生も向いていると言う。本人だけが、本当は建築を学びたい。模試の判定より、その一言を口にする方が難しいらしい。
「国見は、間違えるの怖くない?」
「怖い」
「見えない」
「見せないようにしてるから」
亜澄は落書きを指でなぞった。
「これ、私が書いた」
「いつ?」
「去年。志望校の判定が落ちた日」
「落書きするタイプに見えない」
「石動も、一問目で止まるタイプに見えない」
「今日は、どの式を選んでも別の答えになる気がした」
二人は少し笑った。
知隼は一次方程式を解き、二問目、三問目と進んだ。最後の問題まで来ると、亜澄がプリントを押さえた。
「今日はここ、解かないで帰ろう」
「気持ち悪い」
「正解を一つ残しておく練習」
「意味ある?」
「分からない。だから練習」
知隼は長く迷い、最後の解答欄に斜線を引かなかった。真っ白なままプリントを畳む。
帰る前、落書きの末尾へ小さく「まだ」と足した。
――正解は一つじゃない。まだ。
「文として変」と亜澄。
「決まってない感じはする」
下校時刻の教室を出る。最後の問題は解けないのではなく、解かなかった。たったそれだけの違いが、知隼の歩幅を少し大きくした。