最後列の小さな灯り

 霧生まどかは、商店街のミニシアター「灯座」へ通っている。

 客席は四十席。上映作品は古い外国映画や、小さな町では一週間しかかからない作品が多い。

 まどかは最後列の右端を選ぶ。

 映画が特別好きだからではない。

 自宅では途中で洗濯機が鳴り、職場では休憩中も電話が来る。

 灯座の暗闇では、二時間、席を立たなくてよい。誰かの物語へ集中できない日でも、自分の用事から離れていられた。

 上映前、受付の女性から小さな紙コップの白湯をもらう。

「今日は冷えますから」

 売店の飲み物ではなく、電気ポットの湯だ。

 まどかはそれを両手で持ち、予告編を待つ。

 ある夜、最後列の右端に「故障中」の札が貼られていた。

 座面のばねが外れたという。

 まどかは左端へ座った。

 同じ最後列なのに、出口の灯りが反対側に見え、落ち着かない。

 映画は、老女が故郷の家を片づける話だった。

 まどかは途中で何度も右端の空席を見た。

 スクリーンより、自分の席へ気持ちが向いていることがおかしくなる。

 上映後、受付の女性が工具箱を持って客席へ入った。

「直るんですか」

「ばねを替えれば」

「手伝えます?」

 まどかは自分でも意外なことを言った。

 二人で座面を持ち上げ、外れた金具を確認した。

 専門的な作業は女性が行い、まどかは懐中電灯を照らすだけ。

 暗い客席で、小さな光がねじとばねを照らした。

「いつもここですよね」

「覚えてました?」

「右端だけ、座面の布が少し柔らかいので」

 修理が終わり、まどかは試しに座った。

 以前より少し高く、ばねがしっかり返る。

「違いますね」

「使えばまた馴染みます」

 次の上映日、右端へ座った。

 白湯の紙コップを置き、予告編の音を待つ。

 席はまだ硬い。それでも、自分の体重を受けるたび少しずつ変わっていく。

 灯座は自分だけの劇場ではない。

 知らない客が同じ席へ座り、布を柔らかくする。それでも暗くなれば、まどかは誰の役割も持たない一人の観客になれた。

 映画が終わると、白湯の温度と古い幕の埃っぽい匂いが残り、最後列の小さな灯りだけが帰り道を静かに示した。