朝凪荘のもう一枚
海辺の宿「朝凪荘」で、朱里は一人分の朝食を頼んだ。向かいの席は空いている。親友の苑子と来るはずだったが、旅行前の喧嘩で予約を一名に変えたのだ。
ところが女将の多岐川は、焼き鯖をもう一切れ運んできた。
「追加していません」
「もともとの予約に入っています」
疑わしいのは多岐川、早朝から庭を撮っていた客の朔田、そして来なかった苑子。多岐川は事情を知り、朔田は昨夜、朱里の席を何度も気にしていた。
盆には箸置きが二つあり、一つは貝殻、もう一つは青い硝子だった。追加の鯖は、朱里がいつも苑子からもらう尾の側だけ。予約票の「海側・二名」は、一名に直されず細い線で囲まれていた。
「苑子、キャンセルしてないんですね」
多岐川はうなずいた。二人用プランは前日から返金できない。苑子は自分の朝食を捨てず、朱里へ出してほしいと頼んだ。ただし一皿丸ごとでは押しつけになるから、二人がいつもするように、鯖を半分に分けて、と。
喧嘩の原因は、朱里が会社を辞めると打ち明けたことだった。苑子は「また途中で投げるの」と言った。前の職場で朱里が倒れたとき、何も気づけなかった自分への怒りまで、彼女に向けてしまったのだという。
朔田は宿の広報写真を頼まれた客で、苑子に頼まれ、彼女が庭の東屋にいることを黙っていた。帽子と大きな眼鏡の人影が、庭の向こうにいる。
昨夜、朱里は一人で波の音を聞きながら、会社も友情も、自分から先に手放せば傷つかないと考えた。苑子が来なかったことに腹を立てながら、来られないほど自分も強い言葉を返したと分かっていた。朝食の半分は、仲直りを強制するには小さく、無視するには温かすぎた。会うかどうかを朱里に残したまま、苑子は自分の席だけ消さずにいた。
庭の砂利が、ためらうように一度、二度と鳴った。朱里は振り返らなかった。相手が自分の足で最後の数歩を歩けるよう、鯖の身をゆっくりほぐした。
朱里は青い箸置きを空席の前へ戻した。鯖の皮を一口噛むと、脂と塩が朝の冷たい空気に広がった。
庭へ向かって声をかける。
「尾っぽ、半分なくなったよ」