根を切らない移植ごて
宮廷治療院で、グレイセルは「決断が遅い」と責められた。
患者を救うためなら腕を切れ。呪いを止めるためなら記憶を焼け。院長はいつも即断し、失われたものを数えなかった。
グレイセルの魔法ごて《根守り》は逆だった。植物を掘り上げる際、細根一本まで土ごと包み、移した先で切れずにつなぐ。その慎重さは戦場で役に立たないとされ、彼女ごと辺境へ送られた。
新しい土地の崖際に、銀葉草が一株だけ生えていた。夜には強い雨が来る。崖が崩れれば、薬草は谷へ落ちる。
初日の仕事は、その一株を畑の端へ移すこと。
急げば根を傷つける。遅ければ雨に間に合わない。
グレイセルは膝をつき、ごてを土へ差し込んだ。刃先から薄い光が広がり、見えない根の形を青く浮かべる。主根は深く、細根は石の裏まで伸びていた。
一度で抜かない。右から少し、左から少し。土の塊を崩さず、呼吸に合わせて持ち上げる。
院長なら、主根だけ残れば生存率は足りると言っただろう。細根は数字に出にくい。だから切っても構わない、と。
けれど見えにくいものほど、水を吸い、株を支える。グレイセルはごての光を頼りに、石の裏へ回った一本まで待った。
遠くで雷が鳴った。
最後の細根が光の膜へ収まると、銀葉草は丸い土ごと手のひらへ乗った。畑に掘った穴へ置き、ごてで周囲を押さえる。雨の一滴目が落ちたとき、葉がぴんと立った。
間に合った。
雨はすぐ屋根を叩き始めた。グレイセルは小屋へ戻り、銀葉草の古い葉を一枚だけ湯へ浮かべた。苦い香りが湯気とともに立ち、硬いパンを浸すと柔らかくなる。
治療院から転送された白封の手紙が、卓上で光った。
『重症者多数。処置権限を返還する。直ちに帰任せよ』
彼女は封を切らなかった。窓の外で、移した一株が雨に耐えている。
誰かを救うために、必ず何かを切り捨てる必要はない。
グレイセルは椀を両手で包み、熱を確かめてから一口飲んだ。
今夜、守った根は一つ。そして、切らずに済んだ自分の心も一つだった。