桜の見えない六畳
堀越伶奈は、二枚のハザードマップを重ねて見ていた。
川沿いの部屋には、窓いっぱいに桜が見える。古いが広く、春には枝がベランダへ届くらしい。もう一つは坂の上の六畳で、窓の外は隣家の灰色の壁だった。
家賃は同じ。駅までの距離もほぼ同じ。ただし川沿いは、浸水想定区域が濃い青で塗られていた。
不動産会社の担当者は、「大きな被害は何年もありません」と言った。友人は桜の写真を見て、「絶対こっち」と送ってきた。伶奈もそう思いたかった。二十九歳から住む部屋に、季節を好きになる窓があれば素敵だ。
坂の上の六畳は、内見しても何も心に残らなかった。窓を開けても壁。玄関は狭く、靴箱もない。ただ、避難所まで徒歩四分だった。
申込期限の夜、伶奈は二枚の物件資料を床へ置いた。桜の写真と、灰色の壁の写真。美しいほうを選ばない自分が、臆病でつまらない人になる気がした。
けれど、雨のたびに川の水位を調べる未来も想像した。警報が鳴る夜、自分へ「景色を選んだのだから」と言い聞かせるのは違うと思った。
伶奈は坂の上の部屋へ申し込んだ。
送信後も、桜の部屋を逃した痛みは残った。安全を選べば不安が消えるわけではないし、灰色の壁が急に美しくなるわけでもない。
引っ越し当日、伶奈は川沿いの部屋の広告から桜の写真だけを切り取った。新しい六畳の壁へ、小さな額に入れて掛ける。
雨の日に川沿いを再訪すると、護岸の柱に過去の水位を示す線があった。桜の枝より低い位置なのに、伶奈の胸ほどの高さだった。坂の上の部屋へ向かう道はきつく、息が上がった。どちらにも身体で払うものがある。伶奈は濡れた資料を乾かしながら、その代金を比べた。
引っ越し祝いに花を買うなら、桜ではないものにしようと思った。伶奈はまだ名前を知らない鉢植えのため、窓辺を空けた。
春が来たら、川沿いへ見に行けばいい。住まない場所を訪れる自由まで、手放したわけではなかった。
窓の外には咲かない。だからこそ、その桜は自分で選んで部屋へ持ち込んだものになった。