森の最後の散歩
羽澄灯冴の父は、狩猟ゲームの中でだけ元気だった。現実では寝たきりになっても、仮想の森では犬のバルトと走り、鹿の足跡を追った。
父が亡くなったあと、灯冴はアカウントを引き継いだ。森の入口でバルトが待っていた。犬は父のアバターが現れないことを理解せず、毎日同じ小屋へ駆け戻った。
灯冴は父のふりをした。古い上着の外見を選び、口癖まで真似た。バルトは喜んだが、しばらくすると首をかしげた。歩幅も、獲物を見つけたときの息遣いも違った。
現実の葬儀では泣けなかった灯冴も、森では何度も泣いた。バルトは理由を聞かず、ただ隣に伏せた。父の記録より、その沈黙の方が父を失った事実に近かった。
やがてゲームのサービス終了が発表された。データ移行対象はプレイヤーだけで、NPCのバルトは消える。
灯冴は運営へ何度も頼んだ。犬一匹の人格データなど小さいはずだ、と。回答は著作権と安全基準を理由に拒否だった。
最終日、灯冴はバルトを森の一番高い丘へ連れていった。父が好きだった場所だ。
「父さんはもう来ない」
初めて本当の声で言った。バルトは遠くの小屋を見たあと、灯冴の足元に座った。
「僕は父さんじゃない」
犬は鼻を鳴らし、彼の手を舐めた。
停止時刻が近づくと、画面にログアウトを促す表示が出た。灯冴は押さなかった。森の木々が一列ずつ消え、空が格子になった。最後まで残ったのは、バルトの温かい重みだった。
現実へ戻ると、父の部屋は冷え切っていた。灯冴は長く閉じたままだったカーテンを開け、散歩用の古いリードを見つけた。
翌月、保護施設から臆病な雑種犬を引き取った。茶色でも大型でもなく、バルトには少しも似ていない。犬は玄関から動かず、灯冴の手を何度も警戒した。
彼は父の口癖を使わなかった。急がせず、自分の歩幅で外へ出た。
初めて丘まで歩けた日、犬は灯冴の足元に座った。その横顔を見て、灯冴はようやく理解した。
バルトが最後に待つのをやめたのではない。自分が、父の代わりになるのをやめられるまで待っていてくれたのだ。