棺の右側の花
「花は、棺の右側へお願いします」
小さな葬儀場で清掃を任されるモラは、祭壇を整えるたびそう言った。
理由を尋ねられても、「通路を空けるため」としか答えない。床を磨き、蝋燭の垂れを削り、椅子の列を指一本分ずつ揃える。悲しみを慰める言葉は持たないが、誰かが泣いたあとの水滴だけは、必ず乾く前に拭いた。
その夜、少年トビアは母の棺のそばから離れなかった。
「右に置いたら、お母さんに見える?」
「きっと」
参列者が帰り、風もないのに入口の黒幕が揺れた。
喪服に似た長衣の怪物が入ってくる。顔の代わりに白い仮面、指には細い鎖。《送葬鬼》だ。死者の未練を鎖で引き出し、残された者の寿命と一緒に食べる。
鬼の鎖が棺へ伸びた。トビアには、蓋の隙間から母の淡い影が引かれるのが見えた。
モラは床箒を持ち上げる。
「式は、もう終わりました」
箒が一度、花を払うほど静かに横切った。
鎖だけが音なく切れた。
送葬鬼の仮面には細い線が走り、左右へ割れる。中から溢れた黒い霧は、祭壇の灯に触れる前に白く変わり、天井へ消えた。棺から引かれていた母の影は戻り、ほんの一瞬、トビアへ笑ったように見えた。
モラの一撃は《縁切り》。生者と死者を結ぶ愛は残し、食い物にする執着だけを斬る剣聖の技だった。葬送戦争を終えた女剣聖の名も、モラという。
彼女は割れた仮面を灰袋へ入れ、床に残った霜を温い布で拭いた。倒れた椅子を戻し、揺れた黒幕を掛け直し、散った花弁を一枚ずつ拾う。怪物が来た痕跡は、香の煙より早く消えた。
「おばさん、強い人なの?」
「掃除をする人です」
外では迎えの馬車が着き、御者が遠慮がちに鐘を鳴らした。トビアはもう一度だけ棺へ触れ、それから自分の足で立つ。モラは急かさず、濡れた指跡が残った場所へ布を置いた。
モラは白い花を一本、少年へ渡した。
トビアが迷わず棺の右へ置く。そこは怪物が立った側であり、今はもう何もいない側だった。
モラは花の向きを直し、冒頭と同じ静かな声で言った。
「花は、棺の右側へお願いします」