欠けた合唱譜
卒業生合唱団の楽譜には、一段だけ空白があった。
四声の曲なのに、三つの旋律しか書かれていない。
それでも歌うと、空白の段から若い声が一つ聞こえた。
誰の声か、団員は覚えていない。
指揮者は録音を調べた。
古いテープにも同じ声がある。
集合写真には、二列目の中央だけ人一人ぶん空いていた。
練習を重ねるほど、声ははっきりした。
上手ではない。
少し遅れ、息が短く、最後の音だけ強い。
誰かが、
「昔、そういう歌い方の人がいた気がする」
と言った。
次の瞬間には、また忘れた。
楽譜の裏に鉛筆で一文があった。
「声が出なくても、席は空けておく」
合唱団には、学生時代に言葉を詰まらせる部員がいたらしい。
歌なら声を出せた。
卒業公演の直前、家族の事情で学校を去り、その後、存在ごと皆の記憶から消えた。
指揮者は空白の段へ旋律を書き起こそうとした。
音を一つ記すたび、聞こえる声が薄くなった。
完全に譜面へ移せば、本人の声が消える気がした。
本番でどうするか、団員は話し合った。
録音に合わせる。
誰かが代わりに歌う。
空白のままにする。
最後に、最年長の団員が言った。
「その人は、上手に残りたいんじゃなくて、一緒に歌いたかったんじゃないか」
公演当日、空白の段は空白のまま。
団員は四人ずつ並び、中央に一人ぶんの間隔を空けた。
曲が始まる。
三つの声の間から、若い声が聞こえた。
客席にも届いたらしく、何人かが振り返った。
最後の音で、その声は少し遅れた。
合唱団は先に切らず、一呼吸待った。
四つ目の音が消えてから、全員で頭を下げた。
終演後、観客の女性が訪ねてきた。
「母の声に似ていました」
母は昔この学校にいたが、合唱団の話を一度もしなかったという。
名前と写真を見せてもらう。
団員たちは顔を思い出せなかった。
それでも、その人のために空けた席は確かにあった。
次の公演から、空白の段は誰かが歌うようになった。
毎回違う人。
声を出しにくい日がある団員へ渡す席になった。
消えた一人の旋律を再現することはできない。
けれど、その人が必要とした空白を、次の声のために残すことはできた。