次の電車で行く
三反田藍は、閉まりかけた電車を見ると必ず走った。
法人営業の仕事では、五分前到着では遅いと教わった。乗換案内が示す最短経路を守り、階段を駆け上がり、扉へ滑り込む。間に合うたび、今日もちゃんとしていると思えた。
春から担当先が増え、藍は一日に四つの駅を移動していた。昼食はホームで栄養バーを食べ、移動中に議事録を書く。夜、足の裏が熱を持っても、翌朝には同じ靴を履いた。
七月の午後、前の商談が十分延びた。次の訪問先までは、検索どおりなら開始三分前に着く。改札を抜けたとき、ホームの発車ベルが鳴り始めた。
階段の上に電車が見える。
藍は走ろうとした。右足を一段目へ乗せた瞬間、胸が強く打ち、視界が揺れた。止まれば乗り遅れる。乗り遅れれば八分遅刻する。
手すりをつかんだまま、藍は足を下ろした。
ベルが鳴り終わり、扉が閉まる。電車はホームを離れた。追いつけないものを目の前で見送るのは、失敗を確定させるようだった。
藍は訪問先へ電話をかけた。
発信ボタンを押す前に、呼吸を整えるための言い訳を探した。信号、前の客、電車の遅れ。けれど電車は定刻だった。走らなかった自分を隠すための説明を作ることが、急にひどく遠い作業に思えた。
「前の打ち合わせが延び、到着が八分ほど遅れます」
言い訳を増やさず、走れば間に合ったかもしれないことも言わなかった。担当者は「分かりました」と答えた。
次の電車まで六分。藍はホームのベンチへ座った。シャツの背中には汗がにじみ、喉は乾いている。自動販売機で水を買い、最初のひと口をゆっくり飲んだ。
向かいのホームでは、別の女性が階段を駆け下り、閉まる扉へ手を振っていた。藍は、その姿を昨日までの自分のように見た。応援する気にも、止める気にもならず、ただ水滴のついたボトルを膝に置いた。
遅刻は遅刻だった。訪問先では予定を少し短くし、持ち帰る確認事項が一つ増えた。上司への報告も必要になる。
それでも帰りの駅で、藍は乗換案内の「一本前」を検索しなかった。訪問先で増えた確認事項は、明日の予定表へそのまま移した。今夜のうちに先回りして片づけることもしなかった。
ホームへ来た電車の扉が開く。空席はなかった。
藍は立ったまま、水の残ったボトルを握った。最短ではない時間の中で、冷たさが手のひらへ戻ってきた。