止まった救急車
午前二時十七分、救急救命士の三雲仁へ、後部室から携帯電話がかかってきた。
『サイレンを止めてくれ』
搬送中の久保木だった。胸部大動脈瘤。あと三分で大学病院へ着けば緊急手術に間に合う。仁が「もう少しです」と答えた四十二秒後、交差点から出た燃料車が救急車を横倒しにした。
瞬きをすると、また二時十七分。赤い毛糸帽が担架の脇に落ち、サイレンが同じ高さで鳴っている。
二時二十分までに久保木を手術室へ入れる。それが救命の条件だと仁は信じた。
裏道へ入れば、路上駐車に挟まれ、燃料車が追いついた。
交差点の手前で停車しても、後続車に押され、同じ場所へ出た。
燃料車の運転手へ電話した回では、運転手は急に進路を変え、歩道の人々を巻き込んだ。
『サイレンを止めてくれ』
久保木は毎回、同じ頼みだけを口にした。仁はようやく、患者の鞄から折り畳まれた書類を見つけた。蘇生措置拒否。侵襲的治療も望まないという本人の署名。その上に、家族が提出した転院同意書が重ねられている。家族は新しい手術へ望みをつなぎ、病院は症例を欲しがった。久保木自身の言葉だけが、サイレンに消されていた。
「病院へ着かなければ、助からない」
仁が言うと、後ろから静かな返事が来た。
『助かることを、俺は頼んでない』
次の周回、仁は交差点の二百メートル手前で路肩へ寄せた。サイレンを切り、エンジンも止める。燃料車は何もない交差点を通り過ぎた。
同乗の医師が発進を命じる。仁は蘇生拒否書を見せ、久保木本人へ確認した。
「ここで止まる選択を、もう一度聞かせてください」
久保木は赤い帽子を胸へ乗せた。
『静かなほうで』
二時二十分。心電図の波が細くなり、一本の線になった。時間は戻らなかった。
仁は規定違反で資格を失うだろう。家族から訴えられ、救急隊にも戻れない。それでも記録欄へ「本人の意思により搬送停止」と書き、署名した。
朝の道路を、サイレンのない救急車がゆっくり走る。赤い毛糸帽だけが、空いた担架の上で揺れていた。