残高を見せない客
天乃瀬眞白は、帆布のバッグを持ってプライベートバンクの会員サロンへ来た。
受付で資産相談を頼むと、担当部長の百枝章理は靴とバッグを見て尋ねた。
「金融資産は最低五億円から承っております。残高証明はございますか」
「今日は見せません」
「でしたら、一般窓口へどうぞ。無料相談の場ではありません」
眞白は、隣で困っていた小さな町工場の社長へ若い行員が丁寧に事業承継の説明をするのを聞いた。百枝は途中で呼び戻し、「残高の少ない客へ時間を使うな」と叱った。
眞白は若い行員の名前を覚え、一般窓口から帰った。
翌日、銀行グループの株主総会が開かれた。新しい持株会社社長が、富裕層営業の改革を発表する予定だった。
壇上へ上がったのは眞白だった。
天乃瀬家は銀行を創業した筆頭株主であり、眞白は持株会社の新社長。帆布バッグは、融資先の町工場が作った試作品だった。眞白は半年間、耐久試験も兼ねて毎日使っていた。彼女は残高ではなく、行員が事業の可能性を見るかを確かめに来ていた。
百枝は顔をこわばらせた。
「会員規定を守っただけです」
眞白は画面へサロンの実績を映した。百枝は預かり資産だけで顧客を選び、承継に悩む中小企業を一般窓口へ回していた。一方で、見かけの資産が大きい顧客には無理な商品を販売し、苦情が積み上がっている。
昨日の町工場は、世界企業から受注予定の精密加工会社だった。若い行員は技術と雇用を評価し、適切な融資案を作っていた。
眞白は彼を、新設する事業オーナー支援室へスカウトした。
「残高が増えてから来てもらうのでは遅い。増やす仕事を支えるのが銀行です」
百枝の顧客閲覧権限が停止され、販売資格も再審査となった。
町工場への融資が承認され、帆布バッグの量産契約も決まる。
総会画面に〈代表取締役社長・天乃瀬眞白〉と表示され、百枝の管理者IDが消えた瞬間、残高を見せなかった客が銀行全体の残高を預かる人となり、数字しか見なかった部長だけが帳簿の外へ出された。