母子手帳の薄いページ

箱のふたに、母の字で〈伊都の赤ちゃんへ〉と書かれていた。

中には、黄ばんだ産着、銀のスプーン、小さな靴下、それから伊都自身の母子手帳が入っている。ページの余白には、母の細い字が隙間なく並んでいた。

〈三か月 寝返り、平均より早い〉

〈一歳 人見知りが強い。直させる〉

〈三歳 左手で箸を持つ。右へ〉

最後のページには新しい付箋が貼られていた。

〈次はあなたが書く番。婦人科はここが評判いいです〉

伊都は床に座ったまま、母へ電話した。

『届いた? 懐かしいでしょう』

「届いた。返すね」

『どうして? いつか必要になるものばかりよ』

「必要になったら、自分でそろえる」

『今から準備しておかないと。二十九なんだから』

「子どもを持つかも決めてない」

『またそんなことを。産んだら分かるわよ。あなたも私に感謝するから』

伊都は母子手帳を閉じた。表紙のビニールが、手の中で乾いた音を立てる。

「感謝してることはあるよ」

『でしょう?』

「でも、感謝してるから同じ人生にするわけじゃない」

『誰に何を言われたの』

「私が、私に言ってる」

電話の向こうで、母が息を吸った。伊都は次に来る言葉を知っていた。あなたのため。後悔する。普通は。どれも箱の隙間を埋める緩衝材のように、何度捨てても入れ直される。

「子どもの話は、私からするまで聞かないで」

『親に心配するなっていうの?』

「心配しても、質問しないで」

『そんな勝手な――』

「箱は明日返す。今日はもう切るね」

通話を終えたあと、伊都は母子手帳をもう一度開いた。予防接種の記録だけは、自分の健康に必要だった。スマートフォンでページを撮影し、データを保存する。

産着も、靴下も、銀のスプーンも箱へ戻した。母子手帳は迷った末、そのまま入れた。自分の始まりが書かれたものでも、持っている義務はない。

ただ、付箋だけをはがした。

〈次はあなたが書く番〉

伊都は裏返し、白い面に書く。

〈次は、私が決める番〉

それを箱のいちばん上へ置き、ふたを閉じた。

翌朝、宅配の受付で「こわれものですか」と聞かれた。

「いいえ」

伊都は少し考え、「ただ、開ける人が驚くかもしれません」と付け加えた。

送り状の依頼主欄には、自分の名前だけを書く。品名は〈思い出〉ではなく、〈書類・衣類〉にした。

箱がベルトコンベヤーの向こうへ運ばれる。伊都は腹部へ手を当てなかった。未来の形を確かめる代わりに、空いた両手をコートのポケットへ入れて帰った。