泥のついた所有者

雪村原慧玲は、婚約者の風早坂宗維が庭仕事から戻るたび、泥の匂いを嫌がった。

「景都真さんは高級リゾートを開発してる。土を掘る人ではなく、土地を動かす人なの」

春日井野景都真は、山麓の完成予想図を広げた。

「宗維君の小さな園芸店も、再開発後なら清掃業者として使えるかもしれない」

宗維は、慧玲から返された指輪を布へ包んだ。

「その山の契約、まだ署名されていないよ」

「地主は景都真さんの会社へ売る予定よ」

一か月後、リゾート事業の最終説明会が開かれた。景都真は高層ホテル、ゴルフ場、別荘地を並べ、慧玲を役員婚約者として紹介した。

最後に土地所有者代表が呼ばれる。

宗維だった。

山麓から湖畔までの土地は、風早坂家の環境信託が代々保有していた。宗維は園芸店員ではなく、国際的な景観設計会社の創業者。自分で苗を植え、土壌を調べるため、作業着で現場へ通っていた。土地の賃料も最高額ではなく、地元の農家が暮らし続けられる水準に抑えていた。

提示されたのは、景都真の案とは別の計画だった。森林を九割残し、古い農家を改修し、宿泊利益を地域へ戻す低密度リゾート。海外ホテル会社との契約額は八百億円で、設計料と土地賃料は宗維の会社へ支払われる。

景都真が机を叩いた。

「うちには買収の優先権がある」

信託の弁護士は首を振った。

景都真の会社は土地を所有しておらず、買収資金も未調達。投資家へ“契約済み”と虚偽説明していたため、融資は停止され、取締役から外されることになった。

慧玲は宗維の泥のついた手を見た。

「土地の持ち主なら、もっときれいな仕事ができるでしょう?」

「手を汚さずに森を守る方法は、まだ見つけていない」

宗維は売却拒否と保全契約へ署名した。景都真の高層ホテル案は画面から消え、風早坂設計の森の図面へ切り替わる。

土地登記と八百億円契約が同時に確定した瞬間、慧玲が“土を掘るだけ”と捨てた男こそ山全体を動かせる所有者で、選んだ開発者には一坪の土地も残っていなかった。