浄化のない野営地
軍営衛生官ネトラの支援魔術は、水桶を一つずつ浄化するだけだった。
戦功にならず、閲兵式でも見えない。司令官ギザンは遠征予算の削減で、真っ先に彼女を追放した。
「井戸水は澄んでいる。煮沸係もいる。魔術師である必要はない」
翌日の昼、前線野営地で最初の異変が起きた。
炊事兵が腹を押さえて座り込み、次に槍兵、伝令、馬丁が倒れた。夕方までに百人が天幕から出られなくなった。
水は透明で、臭いもない。
煮沸釜も沸騰していた。だが給水係は沸かした水を、洗っていない共用桶へ戻していた。桶の内側には目に見えない汚れが残り、汲むたび新しい水を汚していた。
「去年まで同じ桶だったぞ」
軍医が空の浄化札を指さす。
「ネトラ殿は井戸だけでなく、桶へ触れる手、柄杓、蓋まで順番に清めていました。水がきれいなのではなく、きれいなまま口へ届いていたんです」
敵軍はまだ一矢も放っていない。
それでも遠征隊は進軍不能となり、最初の撤退命令が出た。
軍旗を畳む兵も腹痛で動けず、撤退用の馬車まで患者で埋まった。ギザンは敵へ悟られぬよう楽隊に行進曲を演奏させたが、隊列は一歩も進まない。節約した衛生官一人分の給金に対し、失われた薬と食料は百倍を超えた。
同じころ、国境診療所ではネトラが新しい給水線を整えていた。
浄化する場所を色札で分けると、患者用の水と洗浄用の水が交わらなくなった。医師長アレフネは一週間分の記録を見せる。
「腹を壊す患者がゼロになった。治療せずに病人を減らせる人を、うちは上級治療師より低く扱わない」
診療所では空いた病床を負傷した旅人へ回せるようになった。薬師は調合時間を奪われず、看護師は水桶を疑わず手当てに集中できる。ネトラの成果は、治した人数ではなく、名簿から消えた患者数で示された。
彼女には衛生術長の白い腕章が渡された。
その夜、軍の急使が診療所へ飛び込んだ。
「全軍の浄化を命じる。司令官は、今回だけ減給も撤回すると」
ネトラは白い腕章を結び直した。
「王国遠征軍との衛生契約は、追放命令が出た時点で終了しています」