海坊主は匂いを預からない
港町のクリーニング店「潮抜き」は、衣類より先に思い出を検品する。
佳歩が祖母の紺色のコートを持ち込むと、店主の潮玄は海色の前掛けを締め、法螺貝の形をした洗濯ばさみで襟をつまんだ。
「匂いは証拠にならない」
海坊主の彼は、香水も柔軟剤も人間の未練も嫌いだという。
祖母が亡くなって半年。佳歩はコートを着られず、かといって押入れへしまうたび、匂いが薄くなるのが怖かった。
「匂いを残したまま、染みだけ取れますか」
「残せる。だが、いつか消える」
「消えないようにしてください」
「人間は、消える物に永遠を注文する」
潮玄は袖の珈琲染みを見て、裏地を外した。縫い目から、古い切符と銀紙に包まれた飴が落ちる。
切符は、佳歩が大学へ進学した街までのものだった。
祖母は一度も訪ねてこなかったと思っていた。電話ではいつも「遠いから無理」と言っていたのに、日付は佳歩が体調を崩した冬だった。
「来てたのかな」
「知らん。衣類は証言しない」
「でも、この切符」
「証拠にしたいのか」
「私を心配していたって」
「心配していなければ、悲しみが減るのか」
潮玄は厳しい声で言い、切符を小さな透明袋へ入れた。
佳歩は首を振った。祖母が来たのか、駅で引き返したのかは分からない。それでも、その日コートを着て切符を買ったことは残っている。
「全部洗わないでください」
「どこを残す」
「右のポケットだけ」
潮玄は法螺貝の洗濯ばさみで右ポケットを閉じ、そこだけ水に触れないよう包んだ。
仕上がったコートから、祖母の匂いはほんの少し弱くなっていた。代わりに潮風と石鹸の匂いが加わっている。
佳歩が寂しそうにすると、潮玄は飴を右ポケットへ戻した。
「匂いは証拠にならない」
「分かっています」
「だが、帰り道の目印にはなる」
店の奥には、洗われていない古い襟巻きが一本、法螺貝の洗濯ばさみで留められていた。佳歩が見ると、潮玄は大きな体で隠す。
「人間の匂いは嫌いでは?」
「嫌いだ。だから、忘れない程度にしか残さん」
佳歩はコートへ腕を通した。
祖母のものではなく、自分の冬を始める匂いがした。