海豹の泡便り
海辺の食堂で働いていた頃、女性は漁網へ絡まった子どもの海豹を助けた。
網を切り、傷へ水をかけると、海豹は沖へ消えた。
二十年後、母の家を売ることになった。
姉は湾の向こうの町に住み、母の葬儀以来、連絡を拒んでいる。
介護を妹へ任せきった罪悪感から、家の話を聞きたくないらしい。
妹も、
「今さら家族の顔をしないで」
と言った。
干潮の朝、濡れた髪の少年が砂浜へ上がってきた。
首に古い網の跡がある。
「潮が返すまで、泡へ一文だけ預けられます。湾の向こうへ運びます」
助けた海豹の恩返しだった。
妹は砂へ姉への文を書こうとした。
「家を売ります」
事務的すぎる。
「介護を手伝わなかったことを許していません」
重すぎる。
「帰ってきて」
本心ではあるが、命令に見えた。
少年は波打ち際で待った。
「長い文は、泡が割れます」
妹はようやく一文を決めた。
「家を売る前に、あなたの部屋をあなたの目で見てほしい」
少年は泡を両手ですくい、海豹へ戻って沖へ泳いだ。
返事は期待しないつもりだった。
それでも妹は一日中、浜辺を離れられない。
夕方、潮が満ち始める。
海豹が戻り、足元へ泡を一つ押した。
姉の声が聞こえた。
「部屋ではなく、台所の壁を残せるか見たい」
台所の壁には、姉妹が母へ内緒で身長を測った鉛筆線がある。
妹は気づいていなかった。
翌週、姉が帰ってきた。
二人は玄関で抱き合わず、先に不動産会社との予定を確認した。
台所へ行くと、壁の線は冷蔵庫の裏に残っていた。
「介護、任せてごめん」
姉が言う。
妹は、
「今すぐ許せない」
と答えた。
「分かった」
「でも、壁をどうするかは一緒に決める」
壁の一部を切り取り、姉妹で半分ずつ持つ案も出た。
結局、写真を撮り、鉛筆線を紙へ写すだけにした。
家は次の家族が使う。
壁を欠けさせず渡したかった。
海豹の少年はもう現れない。
湾を渡る定期船は毎日出ている。
姉妹は月に一度、どちらかが船へ乗ることにした。
泡便りが運べたのは一文だけ。
続きは、割れないよう短くするのではなく、同じ部屋へ座って時間をかけて話す必要があった。