消えない発音記号

菫子は英語の発音を褒められたことがない。中学の授業で「日本人らしい」と笑われて以来、会議では文章を書き、話す役を誰かに譲った。

広告会社に入って五年目、海外の顧客へ提案する機会が来た。企画を作ったのは菫子なのに、冒頭の説明は帰国子女の後輩に任せる予定だった。失敗する前に、自分の声を消しておくほうが安全だった。資料の英文は何度も直せる。けれど口から出た音は、相手の耳に残る。会議の予定が決まってから、菫子はイヤホンで模範音声を聞き続けていた。

隣室のゾーヤはウクライナから来た看護師で、日本語の練習に短い音声メッセージをよく送ってきた。助詞を間違え、長音を忘れ、それでも録り直した形跡がない。

ある晩、菫子は「宅配便を受け取りました」と伝えるだけの英語を三回録音し、三回削除した。一回目は声が低く、二回目は語尾が上がり、三回目には何を伝えたいのか自分でも分からなくなった。廊下で会ったゾーヤが、その画面を見た。

「何回なら、あなたの声になりますか?」

「正しく言えるまで」

「名前にも、正しい発音は一つだけですか?」

ゾーヤは自分の名を、母国語、日本語、英語の三通りで言った。どれも少しずつ違う。

「明日、一文だけ。一回録って、消さずに送る」

翌朝、提案会議の前にチームチャットが開いた。後輩から「最初の説明、私で大丈夫です」と届く。菫子は礼を打ちかけ、昨日用意した英文を見た。

企画の中心は、完璧な発音ではなく、自分が調べた利用者の話だ。文字なら言える。声にすると、自分の癖が残る。

菫子は録音ボタンを押した。

“I’d like to open the presentation myself.”

最初の音が少し弱く、presentationのアクセントにも自信がない。波形が止まる。削除の印が右にある。

彼女は再生しなかった。指をそのまま送信の矢印へ滑らせる。

青い波形がチームチャットに現れた。菫子は後輩への返信欄に、日本語で「冒頭は私が話します」と入力し、送信した。