消灯までの白衣

調剤室の消灯まで、あと十二分だった。

 美緒は薬棚の鍵を確認し、異動する理人の白衣から名札を外した。彼は明日、系列病院へ移る。

「送別会、来なかったね」

「在庫確認があったから」

「俺が、子どもはいらないって言った日から避けてない?」

 美緒の指が止まった。

 三か月前の飲み会で、理人は結婚しても子どもを持つ気はないと言った。美緒はいつか子どもが欲しい。どちらも変えるべき希望ではない。

 好きだと言えない理由は、それ一つだった。始める前から終わり方が見える関係へ、彼を引き込むことはできない。

 二人は患者への説明で意見が合い、休憩室の冷蔵庫の使い方でよく揉めた。理人は美緒が遅番の日だけ、薬歴入力を一部引き受けた。美緒は彼の好きな無糖ヨーグルトを発注数に一つ足した。そんな小さな未来なら、いくつも想像できた。だからこそ、その先にある大きな違いを見ないふりはできなかった。どちらかが我慢して「愛だから」と笑う姿だけは、想像したくなかった。

「それでいいと思ってる」

「何が?」

「考え方が違うこと」

「じゃあ、なぜ避けるの」

 冷蔵庫の温度警報が短く鳴り、美緒は数値を確認して止めた。あと九分。

「それでいいから」

 二度目は、きれいにまとめるための言葉だった。

 理人は白衣を畳まず、椅子の背に掛けた。

「俺は、誰かが変わる前提で付き合いたくない。でも、違うから最初から何もなかったことにするのも嫌だ」

「先のことを考えないの?」

「考える。だから話したい」

「話しても、答えが変わらないかもしれない」

「それでも」

 消灯予告のランプが点滅する。

 美緒は彼の名札を廃棄箱へ落としかけ、手を止めた。裏には、送別会の連絡用に書かれた個人番号がある。

「それでいい、は嘘」

 三度目だけ本音にした。

「違うまま好きになったことを、なかったことにするのはよくない」

 答えは出さず、名札を自分の白衣のポケットへ入れた。

 消灯後、理人が開けた非常灯の廊下を、美緒は一人先に行かず並んで歩いた。