潮位表にない満潮
「潮位表は右の壁です」
港湾ギルドの受付係ウルスラは、船乗りの同じ質問へ一日中答えている。
満潮は何刻か、北風はいつ止むか、入港税はいくらか。青い髪をひとつに束ね、濡れた書類へ砂を振る。海へ出たこともないような細い腕で、古い錨形の文鎮だけを軽々と動かした。
若い船員は、その文鎮を「時代遅れの飾り」と笑う。片耳の遠い漁師ダゴンだけは、錨に触れず、嵐の日も受付脇の椅子で網を繕っていた。幼いころ祖母から聞いた船歌に、同じ錨で海を縫い止めた女の名が出てきたからだ。
夕刻、海が港より高く持ち上がった。
窓の外いっぱいに、巨大な水の顔が浮かぶ。潮神を喰った魔族《逆潮侯》が、波そのものを身体にして現れたのだ。
「港を開け。海底王国への道を返せ」
声にならない圧力で窓がたわみ、職員も船員も床へ伏す。
耳の遠いダゴンだけが、その命令に支配されなかった。
ウルスラは帳簿を閉じ、錨形の文鎮へ細い糸を結ぶ。
「その航路は、開港初日に廃止しました」
彼女が糸を一度引く。
港を覆っていた百万トンの海水が、文鎮へ向かって細い流れとなった。逆潮侯の顔が歪み、津波の腕を振り下ろす。だがウルスラは受付椅子から立ちもせず、糸へ一つ結び目を作った。
波が止まる。
次の結び目で魔族の核が水から抜け、青い真珠となって机へ落ちた。三つ目で海は窓の向こうへ静かに戻り、夕凪だけが残る。
錨の底には、港湾ギルドの創設銘が刻まれていた。
《最初の船路を結んだ者・海綱ウルスラ》
大陸の港が同じ潮位表を使えるのは、彼女が海の満ち引きそのものを一度結び直したからだ。
ウルスラは真珠をインク瓶へ落とし、濡れた窓枠を布で拭く。床の水は桶へ集め、鉢植えへ注いだ。人々が起き上がったころには、沖の異変は突然収まった嵐としてしか見えない。
ダゴンだけが網を持つ手を止めていた。
彼女は口元へ指を置くが、老人は聞こえないふりをして笑い、また網を繕い始める。
若い船長が駆け込み、「今夜の満潮はいつだ」と息を切らした。
ウルスラは何事もなかった顔で右手を示す。
「潮位表は右の壁です」