灰尾のための一匹
魔獣使いユノが追放されたとき、ついてきたのは老いた灰狐だけだった。
王都では百頭の魔獣を操った彼女も、契約印を奪われればただの娘だ。灰狐も命令には従わず、好きな場所で丸くなり、呼んでも片耳を動かすだけだった。
与えられた辺境の森には、小川と壊れた魚籠があった。
ユノは初日の仕事を、魚籠の穴を塞ぐことに決めた。灰狐へ魚を食べさせたかったからだ。蔓を編み込み、ささくれを小刀で削る。灰狐は離れた石の上で見ていたが、蔓が転がると前足で止めてくれた。
「手伝っているつもり?」
尻尾が一度だけ動いた。
修理した魚籠を腰へ下げ、ユノは小川へ糸を垂らした。契約印があれば、水の魔獣に魚を追わせられた。今は虫を餌にして待つしかない。
待つ間、灰狐は石から下り、ユノの背後へ座った。契約があった頃なら、命令一つで魚影を探らせたはずだ。けれど今は、同じ流れを眺めるだけでよかった。沈黙を共有できる相手が一頭いることに、百頭の軍勢より大きな安堵を覚えた。
浮きが沈み、竿が曲がる。
引き上げた山女魚は、掌より少し大きかった。ユノは喜んで灰狐の前へ置こうとしたが、狐は鼻を寄せただけで食べない。生では嫌なのかと、焚き火を起こした。
山女魚へ塩を振り、枝へ刺して炙る。皮から脂が落ち、ぱち、と火の粉が弾けた。香ばしい匂いに灰狐の耳が立つ。小鍋では木の実の粥が煮え、白い湯気が冷えた指を温めた。
焼き上がった魚を半分にし、大きいほうを灰狐へ差し出す。それでも狐は動かなかった。
ユノが小さいほうを一口食べると、ようやく灰狐も身を噛んだ。
「私が毒見をするまで待ってたの?」
狐は答えず、白い尾骨まできれいに食べた。
そのとき王都の使者が来て、暴走した魔獣軍を鎮めてほしいと契約書を差し出した。百頭すべてを再び与えるという。
ユノは契約書を開かず、灰狐の口元についた魚の欠片を指で取った。
「今の私には、一頭で足りています」
灰狐は初めて自分から彼女の膝へ顎を載せた。命令でも契約でもない重みだった。
小川の音を聞きながら、ユノは残りの粥をすすった。今夜釣れたのは魚一匹。そして、戻ってきた信頼が一つだった。