片方だけのスノーブーツ

夜行バスの出発まで十分。東条怜央は北見行きの乗り場で、右足だけスノーブーツを履いていた。左足は普通の革靴。周囲の視線より、二階堂百合が来ないことのほうが気になった。

「目立つね」

発車五分前、百合が紙袋を抱えて現れた。中には左のスノーブーツがある。

二人で北海道旅行をした冬、吹雪の駅で買ったものだ。帰宅後、片方を百合の部屋へ置き忘れた。正確には、百合が『次に雪が降るまで預かる』と玄関へ隠した。東京では二年、積もるほどの雪が降らず、返す口実だけが残った。北見支店への転勤が決まったとき、彼女は「寒い場所では暮らせない」と笑った。怜央はそれを、同行を断る言葉だと受け取った。翌日には社員寮の希望欄へ一人部屋と書き、百合へ見せないまま提出した。

「宅配でよかったのに」

「明日じゃ間に合わないでしょ」

「もう片方だけ買うつもりだった」

「何でも一人分にするんだね」

百合は袋を渡さず、左のブーツを足元へ置いた。

「現地の会社、受けた」

「聞いてない」

「受かったら言うつもりだった」

「寒い場所は無理なんだろ」

「あれは、体じゃなくて仕事の話。今の会社に寒冷地の拠点がないって意味」

怜央は、あの日の会話を思い返した。百合は確かに「今の仕事のままじゃ」と続けかけていた。彼が「分かった。一人で行く」と遮ったのだ。

運転手が荷物室を閉める。

「結果は?」

「今日の二十時に出る」

「あと二分」

「だから来た」

二十時、百合の携帯が震えた。画面に〈採用〉の二文字が見えた。同時に怜央の携帯にも、現地担当者から紹介への礼が届く。

怜央が笑うより早く、百合は画面を伏せた。

「でも、昨日『向こうでやり直す』って言ったよね」

「仕事を、って意味だ」

「私は、私のいない生活をって聞いた」

発車ベルが鳴る。百合は左のブーツを彼へ押しつけた。

バスが動き出してから、怜央の画面に採用担当者の追伸が来た。〈二階堂様より、先ほど辞退の連絡がありました〉

怜央は空いた隣席に二足のブーツを揃えた。百合の部屋の合鍵を左足の中へ入れ、次の休憩所の郵便ポストから返すため、住所を書き始めた。