珊瑚金の浜辺
アニカは海に潜らなくても、海から暮らしを受け取れる。
入り江の底には、金を含む珊瑚の古い群生がある。生きた枝を傷つけないよう、小さな白磁のヤドカリが折れて落ちた欠片だけを拾う。夜明けに浜の皿へ並べ、太陽炉が金分を抽出し、港の細工商へ送る。
アニカはヤドカリの殻へ絵を描くだけだ。それも仕事ではなく、暇つぶしだった。
一匹が絵を気に入らず海へ消えても、描き直しを命じる者はいない。翌日、別の殻で戻ってきたら笑う。それが彼女の唯一の納期だった。
王侯専属の潜水団にいたころ、海は命令の色をしていた。紺の潜水衣は脇が擦り切れ、腰には重りの跡が黒く残っている。真珠が足りなければ嵐でも潜り、耳から血が出ても「次で最後」と背中を押された。退団後も通信巻貝には未読の緊急潜水が三十余り届いている。
その朝、アニカは浜で黄色い線をヤドカリの殻に描いていた。
買取用の貝板がぱちんと開く。
《珊瑚金、抽出完了。食料・画材・家屋修繕費、四十五日分を入金》
金そのものを採っているのに、アニカの取り分は慎ましい。残りは珊瑚礁の保全費へ回る契約だ。それでも暮らせるし、誰かに「もう一度潜れ」と言われても首を横に振れる。
通信巻貝が低く唸った。元団長ロッカの声だ。
『公爵家の指輪を沈めた。湾内だが流れが複雑だ。お前なら見つけられる。船を寄越す』
「寄越さないでください」
『謝礼は好きなだけ取らせる』
「今日は海へ入る予定があります。でも仕事ではありません」
『遊びを優先するのか』
「はい」
その一言は、深く潜ったあと水面へ出るより気持ちよかった。
『潜水士としての誇りを失ったな』
「潜水士を辞めても、海は好きなままでした。嫌いだったのは、あなたの笛です」
アニカは巻貝の通信孔へ砂を詰め、ヤドカリの皿にした。もう怒鳴り声ではなく、小さな鋏の音だけがする。
昼近く、海は凪いだ。
アニカは重りも命綱も付けず、薄い上着だけ脱いだ。誰にも成果を持ち帰らなくていい海へ、背中からゆっくり浮かんだ。