登録名を変える夜
真白のスマートフォンには、父の番号が長いあいだ「お父さん」と登録されていた。
画面にその三文字が出るだけで、背筋が伸びた。出なければならない、説明しなければならない、機嫌を損ねてはいけない。電話に出る前から、声が子どもに戻った。
その夜、真白は着信を見つめたあと、通話ボタンを押した。
「はい」
「遅い。何回鳴らした」
「数えてない」
「今どこだ」
「家」
「一人か」
「答えない」
「父親に隠すことか」
「質問されたこと全部に答える関係はやめる」
父は何か言いかけ、咳払いをした。
「じゃあ何なら話す」
「用件」
「来週、近くまで行く。夕飯を食べよう」
「店なら」
「お前の部屋でいい」
「店なら会う」
「住所も教えないつもりか」
「うん」
沈黙が落ちた。真白は通話画面の上に表示された登録名を見た。話している相手は確かに父親だった。けれど、その役割だけで自分の扉を開ける権利まで渡したくなかった。
「私の番号、誰かに教えた?」
「叔父さんが聞いてきたから」
「教えないで」
「身内だぞ」
「私の番号」
「いちいち面倒だな」
「面倒でも、次から聞いて」
父の声が低くなる。
「お前は俺を何だと思ってる」
真白は息を吸った。
「桐生正臣さん」
「ふざけるな」
「ふざけてない。今、連絡先の名前を変える」
「父親を名前で登録するのか」
「名前が出ても電話に出られる関係にしたい」
通話を切らないまま、真白は編集画面を開いた。「お父さん」を消し、「桐生正臣」と入力する。保存を押すと、上部の表示が変わった。
「変えた」
父はしばらく黙り、「俺の番号はそれ一つだ」と言った。
「うん」
「別の番号からかけたりしない」
「それなら助かる」
「店は、お前が決めろ」
「明日、候補を送る」
「返事が遅くても、何度も送るなってことか」
「一通で待って」
「分かった」
電話が終わった。画面には「桐生正臣 通話終了」と表示されている。冷たい文字列のはずなのに、真白の肩から力が抜けた。
役割を消しても、相手が消えるわけではなかった。むしろ初めて、一人の人間として距離を測れる。
真白は通知音を最小にし、連絡先を削除せず保存した。次にその名前が光ったとき、出るかどうかを決めるのは彼女だった。