白紙の聖女が選んだ名
王立書庫の最奥には、《聖女命名簿》が保管されていた。
聖女の名を書き換えた者は、その人の記憶と力を所有できる。だから十五番目の聖女は、主人が変わるたび別の名で呼ばれ、自分が最初に何と呼ばれていたかさえ忘れていた。
新任司書エノシュの前へ、命名簿と彼女が運ばれてきた。
「王弟殿下のご命令です」と侍従が言う。「空欄へ殿下の望む名を記せ。《従花》だ」
白髪の聖女は反応しない。すでに十四の名前を奪われ、今は番号でしか振り向かなかった。
エノシュは命名簿を開いた。
頁には歴代所有者の筆跡が重なり、聖女の本来の名だけが削り取られている。新しい名を書けば、彼女はまた従うだろう。
司書はインクではなく、修復用の薄い刃を取った。
「何をしている」
「余分な書き込みを除去します」
一番新しい名から、一文字ずつ紙の表面を削る。侍従が止めようとしたが、書庫の守護魔法は本を傷つける者を弾いた。エノシュは傷つけているのではない。後から重ねられた所有名だけを、丁寧に剥がしていた。
十四の名が消える。
最後に残ったのは、何も書かれていない白い頁だった。
聖女の首を囲んでいた文字列も、空白へほどける。
「本来の名まで失われたぞ!」侍従が叫ぶ。
「違います。空欄は、誰でも書ける場所ではない。本人だけが書く場所です」
エノシュは命名簿を彼女へ渡した。
「今すぐ決めなくてもいい。名がなくても、あなたはあなたです」
彼女は白い頁へ触れたが、ペンを取らなかった。そのまま書庫を出ていく。エノシュは追わず、命名簿を閲覧禁止棚から外して机に置いた。
王弟の怒りで、彼は翌日には司書職を失った。
私物を箱へ詰めていると、正面扉が開く。
白髪の女性が、町で買った青い外套を着て戻ってきた。手には自分で選んだ羽根ペンがある。
「外で、いくつ名を聞きました」
「決まりましたか」
「はい。朝日が温かかったので、ソレナと」
彼女は命名簿の白紙へ、ゆっくりその名を書く。
魔法は発動しない。誰も彼女を所有しない。ただ、ソレナという一人の人が、世界に自分の名を残した。
「それで、なぜ戻ったのです」
「名前を選んだら、次に隣を選びたくなりました」
ソレナは羽根ペンをエノシュへ差し出した。
「命令を書くためではありません。私が忘れたとき、私自身の名を一緒に記録してください」
「あなたが望む限り」
「では、その条件で」
彼女は箱の片側を持ち上げた。
白紙だった頁には一つの名だけがあり、その文字は誰の所有印にもつながっていなかった。