真ん中の席
宇田川弥生は、夜間講座の教室でいつも出口に一番近い席へ座る。
仕事で遅れるかもしれない。途中で電話が来るかもしれない。自分より熱心な人の邪魔をしたくない。そんな理由を並べて、最後列の端を選んだ。発言を求められても、前の人の背中に隠れられる。弥生が講座へ通い始めたのは、自分の文章を誰かに読んでほしかったからだ。けれど毎回、朗読の順番が来る前に「今日は聞くだけで」と辞退した。ノートには作品が増えるのに、声にした文は一行もない。初回だけは朗読するつもりで来た。けれど前の人の上手な文章を聞き、「来週にします」と順番を譲った。翌週には別の理由が見つかった。出口に近い席は、遅刻や電話のためではなく、自分の番が来る前に逃げられる場所になっていた。
半年続く文章講座で、隣に座るのは六十三歳の蓮見多佳だった。派手な眼鏡をかけ、毎回違う色のノートを持ってくる。ある夜、多佳は弥生の机の上に消しゴムを一つ置いた。
「教室の真ん中は、誰の席だと思う?」
「早く来た人の席です」
「明日、そこに座ってみて。誰かに譲るかどうかは、一度座ってから決める」
弥生は笑った。
「前のほうは先生に当てられますよ」
「真ん中。前じゃない」
多佳はそれ以上説明せず、講座が終わると一番に帰った。消しゴムは、中央の机に置く目印だと言った。
翌週、弥生は開始十分前に教室へ着いた。いつもの端の席は空いている。鞄を置けば、今日も誰にも迷惑をかけずに済む。
中央の列には、まだ誰もいなかった。机が四方から見える。立っているだけで、自分の輪郭が濃くなるような場所だった。
弥生は一度、出口を振り返った。遅れてくる人が困るかもしれない。背の低い人へ譲ったほうがいいかもしれない。理由はいくつでも作れた。
多佳にもらった消しゴムを握る。角が丸く、よく使い込まれている。
弥生は中央の机まで歩き、椅子を引いた。鞄を足元ではなく隣のフックへ掛け、ノートを正面に開く。真ん中の席に消しゴムを置いてから、誰かが来るより先に腰を下ろした。